こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は「思想カテゴリー」にて投稿します。
内容的には「オカルト」かもしれません。
ただ、私を含めまして、こうした大切な「フレーズ」を忘れがちになります。
それは「手放す」という事です。
この「手放す」という言葉は、色々なところで耳にします。
例えば「恋愛」や「友人関係」など、社会のいたる所で耳にする言葉です。
しかし、本当に「手放す」を実践している方々は少ないと痛感します。
その為に、不要な「争い」や「劣等感」や「自己否定」などが絶えません。
「お前に何がわかるんだ」と言われても、わかるんです。
「ペニー・ピアス」さんの「直感への道」という本があります。
特に、こうした「手放す」という必要性を感じる書物です。
こちらの書物では、人間が必要としている「感覚」として「直感」が必要であると説いているのですが、これは一般的に「直感」といえる範囲を超えた書物です。
つまりですが、「直感」を理解できていたら「争い」も「不平不満」も「自己否定」も起こりません。
こうした「マイナス感情」は、「自分を無視した生活態度」として現れている時に起こります。
私達の日常は、私達の中にあります。
これはどうゆう事かと言いますと、「自分」と「他物」は同一であると言う事です。
同一であるから、世界は「自分」の中にあるのです。
さて、私達の精神は「海」を例えるのであれば、その「海」の下にあります。
そして、日常の現象は、この「海の上」で展開されています。
この「海」の上で、エネルギーは「物体化」して活動を行っています。
そこに「人」が集団をつくり、「文化」を育てて、「生活」を作り上げてゆきます。
ここに見られる世界は「海の下」にある「精神」によって見出される世界です。
これこそが、最も重要な事です。
私達の生活は、あらゆる面で「出来上がっている」を見ています。
「哲学」であり「宗教」であり「競争社会」であり「格差社会」であり。
必ず、「出来上がっている」という世界観を持って、問題の解決に当たります。
何故、そうなるかと言えば、そうする事が「自然」であるように教育を行ってきたからです。
「服」が無ければ、「服」を買います。それは一般的な「服」です。
宿がなければ「ホテル」に泊まります。それは自分が理解できる範囲内のホテルです。
私達は、この世界で「精神」とは違った「物体」としての「肉体」を所有しています。
この「肉体」は「他の動物」と同じで、この世界の日常を生活する「注意力」を持って活動しています。
これと同様に、私達の一般的な「脳」は、この世界の日常を「物」として扱います。
だから、「大企業の大量リストラ」や「就職氷河期」や、それに伴う「自己否定」や「劣等感」を払拭する事は、困難になります。
また、企業にて「新製品」の開発にしましても、「すでにある(物)と日常の比較」以上の事が出来ませんので、成長が鈍化しています。
各会社の作業者を拝見しましても、「今ある(物)と日常の往復」意外の世界しか見えていません。
ここに至り、ついに「精神」は異常をきたし始めます。
「他者」への「批判」ばかりが目立つようになります。
「自分」に対しては「病気」や「怪我」や「不運」が多発してきます。
新しい「解放感」を目指して「セミナー」に参加しても、そのセミナーが「すでにある(物)と日常の比較」を超える所がなく、息切れしてしまいます。
この世界にあふれる、様々な「解放感」に手を出しても、それは「一時的」で限定されます。
何が起こっているのか、解らない世界が続く事になります。
その状況の中で、結局は「すでにある他人の言葉」や「知識」を携えて、結局は同じ生活を繰り返します。
「他者」への「批判」は、日常化するようになります。
「自分」に対しては「病気」や「怪我」や「不運」だけでなく、「宗教」や「超常世界」に目を向けて行きます。
やがて「無口」になり、「ケチ」ばかりを付ける態度を身に付けます。
この状態が発生する理由は「海の上」に居続けるからです。
本来、私達の精神は「海の下」にあるのです。
次回に続きます。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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