こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は「哲学カテゴリー」にて投稿します。
このブログを書き始める以前から、それは異常な世界の広がりを、多くの方が体験してきました。
その理由には「グローバル化」が浸透してきた為である事も、どこかで書きました。
様々な思想やエネルギーなど、それを受け取る側の日本人にも変化が現れはじめます。
一言で言えば、「昔と人間が変わってきた」という事です。
このブログでも投稿しましたが「相模原障害者施設殺傷事件」のような出来事は、普通の日常では発生しない事象でした。
こうした出来事は「特異性」を感じますが、現代にあっては「スタンダード化」する流れを備えています。
こうした「特異性」に対して、これまでは「自己の対策」が成されてきました。
それを「良心」と呼びます。
この「良心」は、我々の「深層」にある「無意識」の世界に常駐する「布石」でありました。
スプリチュアル系の「神」の存在や、心理学も含めて「無意識」という世界に「救い」を求めました。
(私も散々、無意識の世界について投稿してきました。)
「相模原障害者施設殺傷事件」のような出来事は、それを「自制」する「本能」が働く事を期待するものですが、それが発動しませんでした。
「無意識」にある「自制の心」は、「神」の力は、何故に発動しなかったのでしょうか。
哲学者である「ジャック・ラカン」が述べています。
「無意識の世界なんて、ある訳ないじゃん」
なんと、「無意識」の世界はないんですか?
「ジャック・ラカン」は、次のように考えています。
あくまで、「主体」を構成する為に発動させられるもので、それ自体(無意識)は存在していない。
存在しているのは「言葉」だんだ。
こんな感じで考えています。
そうしますと、「相模原障害者施設殺傷事件」のような出来事を理解する手助けになります。
おおよそ、「自制心」という物が存在しない場合がある。
「無意識」に「良心」がなければ、「自制心」なんて動くはずがない。
「植松聖容疑者」という「主体」には「無意識」の「良心」は無かった。
ただ、「植松聖容疑者」という「主体」を作る「言葉」だけが存在していた。
すると、そうした「植松聖容疑者」を作り上げた「言葉」が悪いと言う事になるのでしょうか。
しかし「言葉」なんて、いくらでも「ありふれて」います。
なんで、この「ありふれた」言葉から「狂気的」な言葉を選択して、自分をその言葉の「象徴」としてしまったのか。
何となく見えてきましたね。
つまり「象徴」的な言葉を選択すた場合に、人間は主体的な存在になってるのです。
ついでに、それは「自分」の言葉でなく「他者」の言葉ですね。
だから「ヒトラー」なんて人物を「代名詞的」に上げていましたね。
さて、ジャック・ラカンの「象徴界」と「他者のディスクール」という「言葉」を使って、次回にまとめます。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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