こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は「プチ神事カテゴリー」にて投稿します。
本来、この世界は「美しさ」が溢れています。
そして、清らかさも流れています。
私が、このような考えに至ったのは「藤本憲幸さん」が「想念法」という思想の中で語っていた出来事でした。
この中で「本来はこの世界に悪い事なんて何もないんだから」と話していた記憶があります。
しかし、ふと人間は「悪い習慣」に陥っています。
やがて、世界を「悪い目」で見始めます。
お釈迦様は「人間は生来、悪い存在である」と言っています。
だから、人間は「出来るだけ世の中に執着を持たないで生きる事」を説いています。
これは「世の中」に目を向ければ、それだけ「執着」を持つ機会が増えるからです。
「生来、悪である」人間が、沢山の「機会」を持つことは、それだけ「悪」を増産させる事になるのです。
さて、昨日「あの神社へ行った方が良い」と感じる出来事がありました。
出向く予定は無かったのです。
暑いし、汗がダクダクになります。
しかし、出向いてみると参拝客が少なかったのです。
周辺の木々が、ゆっくり精神を落ち着かせる涼やかな風を運んでくる中で、この神社のパワースポット的な所へ足を運びます。
ちょうど、台風が接近している前日でもあり、風が適度に流れている中で、神社のパワースポット的な所で、「気」を感じます。
もう、その場所の「気」が大きいので、感じやすいのです。
その場所で神社の整備された、そして緊張感の漂う建物や色彩、そして周囲の自然の流れの中に「気」を感じていると、まざまざと解るのです。
「本来は、美しいものしか作られていない」
「美しいもの」しか、作り出されていませんし、流れていないのです。
ただ、「お釈迦様」が言われているように、「生来は人間は悪である」である為、この「美しさ」を見逃してしまう事が多いようです。
私は、このところ「夏バテ」に伴う「疲労」や「怪我」など、精神や肉体の変化があった為に、改めて「自分を見つめる」事を繰り返して瞑想していました。
すると、やはり「自分に対する苦情」が多いのです。
それは「世の中に対しての、自分の生き方への不満」が多いのです。
その「精神」の言う事に同調してしまいますと、ますます「ウツ」になってしまうのです。
人間は、自分を見つめる時に、素直に「不平、不満」を見出す事があるはずです。
ところが、世の中には調子よく「良い世界だけを見れば良い」という方法があります。
例えば「サイコサイバネティクス」の一部もそうです。
この世界は良い事ばかりだから、その事に目を向けると言う事です。
ただし、私は、誰にでも「心」の内で叫んでいる「悲鳴」を無視は出来ないのです。
この「悲鳴」は、自分に対して「メッセージ」を叫んでいます。
この「メッセージ」を無視していると、私のように「怪我」をします。
もしくは「病気」になります。
または、生活上に障害を及ぼす、何らかの変化が出てきます。
私が学ばせて頂いた回答は、次の事でした。
「美しさであふれてる世界」と同調する事です。
それはどこにあるの?と思われてしまうと弱いのですが、手っ取り早いのは、巷で「パワースポット」と呼ばれている所です。
「美しさであふれてる世界」しか、現れていない。
そう感じる世界に身を置きますと、「精神の中で葛藤」しています「不平、不満」に対して「理解」を得られるように、話を持っていけます。
「今まで、不平や不満を発生させてきたのは自分だ。だから、これからも同じような行動を取って、さらに抑圧する機会は増えるかも知れない。だから、教えてほしい。どうすれば、解決の方向に進める事が出来るだろうか。」
私は、こんな感じで「自分自身」に問いかけます。
何故なら、自分自身の精神以外に、自分を有効に生かす手段を直接に伺える手段がないからです。
私は今、このような態度で「毎日を良く生きる事の実践」を行っています。
自分の中にある精神に問いかける事を続ける事で、精神との「伝達経路」が広がってゆきます。
助けとは、自分の精神と肉体にあります。
その「声」を聴く事が、大切です。
そして、出来る限り「美しさであふれてる世界」を身近に感じて生きる事が大切です。
お釈迦様の理屈ですが「人間は生来、悪である」からです。
この「悪」に目を向ける事も、私は自然であると思っています。
そこにも「答え」があり、「叫び」があるからです。
ただし、「美しさであふれてる世界」を身近に置いて感じる事が必要です。
そうしませんと、ただの「悪」になり「不平や不満」を引き起こします。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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