スピリチュアル で「波動」は、何か足りないだろう③

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

本日は「思想カテゴリー」にて投稿します。

 

前回より「波動」の存在について考えています。

 

 

まず、なぜ「波動」を高めて生活を良くする必要があるのか。

3枚の写真より、その雰囲気を味わって見て下さい。

 

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ひとつ言える事は、「波動」の高い「心地よさ」は「自己」から離れて一体化(意識を共有化)している時に感じるはずです。

 

ただし、「波動の低い人」が「波動の高い自然」の中に入っても、変化を継続する事はないでしょう。

 

これは「本人」という「粒子」が、その性質だからです。

 

そうした「波動の低い人」は、本当に悲しいほどに溢れています。

 

 

 

「波動」は「磁気作用」によって発生する、ただの「光」の作用です。

 

そんな「波動」という言葉の響きは良いですが、危険なのは「他者の言葉に乗っかっている」という事なんです。

 

それが「自己の言葉」であるなら問題はありません。

 

 

ただ、私が少し見た限りでは、「恐怖」や「穢れ」を感じるのです。

これは精神か弱っている人や、見識の薄い人は、それを全てに受け取ってしまう。

 

「正義」や「神」という言葉は、安易に他者から習得できる内容ではありません。

これらは「自己」と語り合い、「御霊」に相談する事で成立してゆくものです。

 

そして「自分」よりも「他者」の立場を理解して尊敬し、協力する事で「波動」は高くなるでしょう。

(さらに大切なのは、その理解の先に他者に譲られない自立心を持つことです。)

 

つまり「雰囲気」ですね。

 

いくら「運命論的」に「波動」を高めても、この宇宙が「波動関数の崩壊」により「決定的」でない事が解っているので、期待をかけると言う事は出来ません。

 

つまり「科学的」に見れば、「波動」を高める事によって「人生」が良くなるのか、世界が良くなるのか、解明する事は出来ません。

 

私は「波動」をそのように捉えています。

 

「波動」の「高い」や「低い」は問題ではありません。

 

それらは「条件」や「状態」の「一場面」であり、本来は比較する問題ではありません。

 

誰だって「病気」の時は「波動」が低くなるはずです。

「怪我」をしても「波動」は弱くなります。

「家庭生活」が上手く行かなくても「波動」は弱くなります。

 

全ては「心」が発生されている「問題」であり、それが実体として現れるのが「病気」や「怪我」や「事故」です。

 

それは「対人関係」としても現れます。

 

その為、「波動」はあくまで「様子」という「域」を超えて取り扱う物ではないと感じます。

 

 

絶対に「波動が高ければ良い」という事はありません。

 

はるかに「波動の低い人達」が好き勝手にやっています。

 

また、「神の声」が聞こえても「人の声」が聞けなければ意味がありません。

 

 だからこそ、ご自身にあった「向上」を感じて下さいませ。

 

その時々に、エネルギーの「波」を存分に感じて下さい。

私も、気が付いたら「波動」という言葉を使いこなしています。

「波動」が、こんなにも一般的に使われているとは知りませんでした。

 

なんか、量子力学の「パクリ」を感じるんですが。

もしくは「古典力学」の「波動」をそのまま「パクリ」していたか。

 

結局、曖昧すぎて説明が出来ないんですよね。

何で「物」から「波動」が出てるとか、説明が一切ないですし。

 

「波動」を高めると生活が良くなるとか言っても、そんな世界はないし。

(波動関数の崩壊)

 

ただし、この世界が「粒子」の集まりから出来ているのは事実です。

それは数100種類の「元素」となって、物質化してきます。

 

その内の「人間」も物質です。

その人間が「波動」を出せるのであれば、この世界は本当に、自分の好きなように生きる事が出来るはずです。

 

「生成」が可能であると言う事です。

 

それをスピリチュアル系の人は言っているのかな。

 

これは「精神世界」的な用語としてあるべきかな。

 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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