こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は「日記カテゴリー」にて投稿します。
この標題。
そのまんま、映画「切腹」からの引用です。
(https://www.youtube.com/watch?v=zMrHFvpEJL0 引用)
「切腹」という映画は、面白い映画です。
この映画の中で「刀は切るだけではなく 突く事 いや 叩き折る事もできる。」というセリフが出てきます。
さて、相手の下段切りに対して、それを「刀」で受け取ります。
(https://www.youtube.com/watch?v=zMrHFvpEJL0 引用)
「パキーン」と相手の「刀」がへし折れます。
(https://www.youtube.com/watch?v=zMrHFvpEJL0 引用)
(https://www.youtube.com/watch?v=zMrHFvpEJL0 引用)
(https://www.youtube.com/watch?v=zMrHFvpEJL0 引用)
普段の「剣術」にいくら優れていようとも、多方面を持った「知識」が相手に立つと「刀」は折られてしまうのです。
「刀」は「切る物」という認識があります。
だから「切る物」として扱う事を普通に考えて、その「切る物」から出た考え方から抜け出せないのです。
これは「前々回」ぐらいから投稿しています内容ですが「知識」に捉われると、人間は「知識」の道具として扱われてしまいます。
「知識」はあくまで、人間が扱う「道具」です。
しかし、この関係が逆転してしまうのです。
通常の「知識」を保つことを「ディノテーション」と呼びます。(ツッコミは勘弁)
その「通常知識」に対して、本当は「疑いの目」をかければ、いくつかの「視点」が存在するはずです。
その「視点」がある限り、「知識」は、それぞれの形態を持った「存在としての在り方」が示される訳です。
刀は切るだけではなく 突く事 いや 叩き折る事もできる。
私が、もう何十年もやっていない事に「餅つき」があります。
いわゆる「臼と杵」で「ペッタンコ」と行うのですが、ビックリした事があります。
私が小学校の頃の話ですが、学年の地域で「餅つき」をしようと言う話になりました。
「臼と杵」で「餅つき」をしようとした所、「さあ、つこう」と言い始める親がいるのです。
親以外にも、その子供たちもそうでした。
「おい、蒸した後はこねるだろう」
いきなり「つきはじめよう」と言い出したのです。
そうか、餅つきを知らないんだな。
「臼と杵」は、ただ「ペッタンコ」するだけの道具ではありません。
こねるんです。
叩くだけではないんです。
こうした事例は、ひとつの例えですが、「知識」は「一方向」しか存在しないのではありません。
本来は「多方向」の存在として存在しています。
この「多方向」があるとして捉えないと、「刀」を折られた時点では、すでに「死」しかないのです。
「死」に匹敵する「絶望」も同じです。
だから、私が提案したい人間としての態度は「多方面性」です。
ひとつの「泉」だけから「水」を得る場所があれば良いと安心する事が危険な現代です。
そのような時代は、本当に終焉しています。
多角度から「知識」を有する人間が、相手の「刀」を折れる生活を掴めます。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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