私が思う「天津祝詞」について ①

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

本日は「天津祝詞」について投稿しようと思います。

 

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photo credit: Mixtribe Photo via photopin cc

 

「ご真言」という言い方はどうかと思いますが、これも強力な「ご真言」になります。

 

実は、今回の投稿は万人に受け入れられるものではありません。ナイーブです。

 

よって、私の体験に同調する方々がおられて、その方々が人生の中で、新しい発見と経験をされる事を良しとして、投稿したいと思いました。

 

まず、この「天津祝詞」ですが、「天皇」が関わります。

 

「天皇」の治世は誰もが知る所です。その歴史は長く、今の日本の古い歴史に明確に記録が残っているのが、この「天皇」の治世になります。

それ故に、この「天皇」を嫌う方々が多いと思います。

すんごく古い事ですが、「皇族軍」が日本を席巻するのですから、当時の人達の中には、良い気分ではなかった方々も多くいた事でしょう

最近の事例では、「第2次世界大戦」の記憶がある事でしょう。この当時の日本を席巻していた思想に「国体論」がありました。

つまり、「天皇が国の主体である」という事です。

もちろん、異を唱える方々が多くいましたが、例えばです。私の近くの神社には、「天皇陛下」の写真が飾られたそうです。

 

人間は、都合の良い所に落ち着こうとする傾向があります。

 

天皇の世を嫌う方々は、古い時代から現代にかけてまで、それはいる事でしょう。

 

以下に、こうした人間文化の構造について投稿しています。

 

「私の記憶にある文化」

http://mahakara.blogspot.jp/2014/02/blog-post_7715.html

 

故に、「天津祝詞」を覚えようとしない方々が多いのではないでしょうか。

先天的に、毛嫌いをしているのではないでしょうか。

自分の想いを超えた、それは過去の遠いご先祖様の時代から意識してしまう、何かを感じているのはないでしょうか。

私もそうでした。

特に、時代が都合の良い場面で「天皇」を祭りました。

「明治」もそうですし、「戦前」もそうです。

そうした勢いが、いまだに残っていて、自分たちを苦しめている気がする時があります。つまりは、「排除」です。

 

日本の多くの神社には「天照大御神」が祭られています。いや、神棚には「天照大御神」が祭られているでしょう。

 

これを「毛嫌い」する方々も多くいるのではないでしょうか。

 

私も何故、「天照大御神」を祭るのかと思う時がありました。

それは、私の近くの神社に「天皇陛下」の写真が飾られたのと同じ事です。

ただしかし、「天照大御神」に関しましては、「卑弥呼」であった可能性もありますし、まぁ、良しとする所もあるでしょう。( ̄ー ̄)ニヤリッ

 

まぁ、こんなそんなで、「天津祝詞」の存在に目を向けようとしない方々が多くいる事を潜在的に理解できます。

そんな方々に、何故に私が「天津祝詞」を薦めようとするのか。

この理由を次回に投稿したいと思います。

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。