こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回は「神様カテゴリー」にて投稿したいと思います。
巷で有名な「ひふみ」について投稿したいと思います。
この「ひふみ」については、様々なサイトで解釈が展開されています。
例えば「悪に関連する」内容や、「精神的に活路を見出す」内容であったり、私も何が正解であるのかが解りません。
私が知っている「ひふみ」についての解釈を書き残しておこうと思いました。
一般的な解釈であるかは不明です。
「大祓講義 今泉定助 著 昭和17年」に書かれていた解釈を引用させて頂きます。
まず、「ひふみよいむなやこと」という言葉があります。
これは「数字」として標記されます。
つまり「一二三四五六七八九十」の事です。
この「一二三四五六七八九十」を「ひふみよいむなやこと」と読みます。
誰でも、この数字の数え方は聞いた事があると思います。
さて、問題は「ひふみよいむやなこと」が何であるかです。
「一」である「ひ」は「火」を意味します。
「二」である「ふ」は「風」を意味します。
「三」である「み」は「水」を意味します。
「四」である「よ」は「地(世)」を意味します。
「五」「六」は「い」「む」と読み、「忌む」という事を意味します。
つまり「けがれ」の事になります。
「七」「八」は「な」「や」と読み、「祓い除く」という事を意味します。
「九」「十」は「こ」「と」と読み、つまり「言葉」という事を意味します。
ただし、この「言葉」を用いる者は「天皇」であり、この言葉は「神勅」であります。
故に、「ひふみよいむなやこと」は、天皇の神勅のより、世の中の「祓い給う」までの処置を現わしている事になります。
「神火清明 神水清明 神風清明」 と言う祓いの言葉があります。
「祓い」の基本的な力は「火」と「水」と「風」が持っています。
「ひふみ(一二三)」でこれを現わしています。
そして「ひふみ」が行われるのが「地」という「世」です。
つまり「よ(四)」です。
「ひふみよ(一二三四)」で、祓われる私達が生活する世の中を現わします。
その私達の生活する世の中は、常に「忌む」という現状が溢れ出ています。
つまり「いむ(五六)」という事です。
これに対して、これを「祓い除く」事が必要になります。
つまり「なや(七八)」という事です。
現在、国家の主権者は「国民」でありますが、つい最近である戦前までは「天皇」が国家の主権者でありました。
つまり、私達の生活する世の中を 「忌む」という現状が溢れ続ける事無く、祓い除く為には、「天皇」の言葉である「神勅」が必要になるのです。
つまり「こと(九 一〇)」という事です。
「天皇」の「神勅」が発せられることで、私達が生活を続ける世の中に対して「祓い」という行いが完了するのです。
故に、強力な言葉であるとは感じられます。
このような意味で展開されるのが「ひふみ」であると思っています。
この「ひふみ」については、それだけで「チャクラ」を開くや、「スプリチュアル的な」内容が展開されていたりしますが、基本的には簡素に理解されることが宜しいと思います。
人間というものは、どうしても「目新しい心理」には共感を覚えてしまい、野めり込んでしまうものです。
野めり込んでしまうと、それが真理のように感じ始めるものです。
私の経験を少しだけ紹介させて頂きます。
ある神社にて「祝詞」を上げますと、嫌がれている気配を感じるのです。
私はそれが何故であるのか、理解が出来ませんでした。
この世にある「正義」や「正しい物」という事は、絶対的に正しいはずです。
しかし、それを行い続けると、ますます嫌がれることを覚えました。
とある12月の「大祓い」に、結構な参拝客が神社に訪れておりました。
私はさっさと帰ろうとしていまいたが、「祝詞」を上げている方がおられました。
その時、まざまざと感じたのです。
「祝詞」を上げているのに、汚らしいのです。
「不」というか「負」のような、まざまざとしたエネルギーが溢れているのです。
その方は、ご自身が正しいと思う「祝詞」を上げていますし、外から見ても別に問題もない事なのですが、私は気持ち悪くなりました。
たまにですが、「神職さん」が上げている「祝詞」が外に漏れていて聞いていると、この人は・・・と気分が悪くなることを覚える時もあります。
これは私の感覚ですが、「祝詞」などの「語り事」は、自分の想念を広げ共鳴させる効果があるのではないかと感じています。
そのように勝手に理解をしてからは、むやみに「祝詞」を口にする事を控えるようになりました。
神様が嫌ったのは、きっとこのような私の状態であると感じました。
ただ、やはり「祝詞」が助けになってくれる場面が多数ございます。
故に、間違ったものではないと思っています。
私が「ひふみ」にしても「祝詞」にしても、どのような「感覚」で行う事が宜しいか1例ですが、書き残しておきます。
これは私の主観で、あなたが行う必要はありませんが、参考程度に見てほしいと思います。
まず、両手の手の裏を目の前にかざします。
そして「意識」を全て、その「手」に納めます。
これはイメージで結構です。
すると、「手」に自分の全てが、今、ある事になります。
2分くらいは、その状態を理解してください。
意識を戻してください。
次に「呼吸」に意識を求めてみて下さい。
2分くらいは、その状態を理解してください。
すると「呼吸」に、あなたの全てが、今、ある事になります。
意識を戻してください。
次に「ひふみよいむなやこと」と口から外に共鳴(響かせて)見てください。
ただ、その際に、だた口から外に共鳴(響かせて)させる事だけに意識を置いて下さい。
(この感覚が解れば、「手」や「呼吸」に意識を持ってゆく作業は必要ありません。)
これだけで、明らかに「自我」が広がる共鳴(響き)ではなくなっていると思います。
この口から外に、「祝詞」を話す(共鳴)させますと、通常は「自我」も入ります。
すると、それが広がりを見せます。
つまり、あなたの意識が広がります。
それは、他人から見たら気持ちが悪い物かもしれません。
それを避ける、私が「祝詞」などを上げる際の「心」の在り方の1つの方法です。
「私」という「自我」の「欲」や「想念」が広がりますと、それは汚い、扱いづらい物を覚えます。
本来、あらゆる事に「感謝」の念を持ち、常に「愛」に満ちた人間であるなら、自分が共鳴しても問題ないのですが、さすがにそれは無理です。
何か、清々しい気分の時は良いのですが、なかなかこれがどうも。
これは、私の独り言なので、もし宜しければ参考にして頂けると幸いです。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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