こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は「プチ神事カテゴリー」にて投稿します。
私達の「魂」は、どんな誰でも「高い所」にあるはずです。
しかし、「高い所」にある事を、自然と見過ごしている時があります。
そのような時とは、「姿勢」が曲がっていたり、心を悲観的な方向を変えている時です。
つまり、ちょっとした「隙(すき)」がある時です。
私達の「魂」が「高い所」にあるとして、想像してみて下さい。
あなたは「東京タワー」の上にいます。
そこで、あなたは高い場所の景色を見る事は出来ても、「東京タワー」の下の景色を見る事は出来ません。
もしも、「東京タワー」の下の景色を見るならば、あなたは「東京タワー」から降りて、下界から景色を見渡すしかなくなります。
下界に降りれば、「東京タワー」の存在を、下から万遍なく見る事が出来るでしょう。
これが「魂」の感覚が下にある時です。
私が言いたい事は、人の「魂」とは「未来 現在 過去」を作り出す事のできる「高い所」にある存在であるとしたら、その下界の足元の事なんて、解らないのです。
もし、理解しようとしたら、「魂」の感覚を下げる必要があるでしょう。
そうしますと、今まで見えなかった事が別の角度から見え始めるかもしれません。
今まで関わってきた方々の精神の「善悪」を、今まで以上に感じるようになるかもしれません。
今まで以上に、感じた事のない「雰囲気」や「気配」を感じ始めて、それを理解し始めるかもしれません。
ただそれは、健康上にも影響するでしょうし、「魂」も影響を受けます。
ここで間違っていけない事は、この状況は決して正しい状況ではない事です。
通常の人間であれば、霊的な現象に合う事はあっても、引っかかり続ける事はないでしょう。
理由は、私達の「魂」が「高い所」にあるからです。
この「魂」が「高い所」にあるという事実を変更する方法が、「姿勢」が曲がっていたり、心を悲観的な方向に変えている時です。
つまり、ちょっとした「隙(すき)」がある時です。
しかも、わざと変え続けるでしょう。
そして、自分には目の届かない神秘的な体験を信じ込み始めます。
その際たる方法が「形式」です。
「形式」を重んじて、信仰の真実を変化させてゆくのです。
その為、私の神様的で大切にしている感覚は、「形式なき自由自在」なのです。
これは「「現実離れの世界」は無意味です。」という投稿内でも書いた事ですが、他人から見て、あまりにも現実離れしたような行いを見かけますと、普通は嫌がります。
ところが、それを「真実」と捉えてしまうと、もう抜け出せなくなります。
人間の思考とは自分勝手なもので、「自分が選らんだ物」は真実と捉えてしまいます。
これは、お店で店員さんに製品を勧められると拒否する、あの心理状態です。
他人から進められた物は拒否しますが、自分が選んだと思ったら、真実として受け入れてしまいます。
人間は、自分の都合のよい「言葉」を選択して、それを記憶して文章にします。
そうしますと、その方には、その「言葉」は真実になり、それを信仰します。
その為、神社などで、現実離れしたような行いをする方々を、実は責められないのです。
これは、人間の特質上、「しかたない事」なのです。
この傾向は誰にでもあります。それが人間だからです。
そして、人間である故に「形式」という「枠(わく)」に入りたがる傾向があります。
新興宗教などが勧誘する際に使う方法です。
「幸福」、もしくは「真理」の為に、「これやあれ」を行う必要があるという事です。
多くの人間は、これに引っかかる傾向を持っています。
その理由は、「形式」という枠が、社会の一般的な構造として仕組まれているからです。
学説的には「構造主義」と言います。
神事において、毎日、神棚に「手」を合わせると言う事が必要かもしれませんが、私は神棚は「ある」だけで活用されていません。
では、どこで「手」を合わせれば良いの?と思いますが、特別な時間を作って「手」も別に合わせません。
寝る前が良いとしても、「手」を合わせる時もあれば、合わせない時もあります。
ただ、布団の中に入って、「毎日、有難うございます。」
こんな感じです。
そして朝が来たら「今日も一日、有難うございます。」と言ってスタートする感じです。
ただ、超勝手な自意識ですが、その時々で神徳は感じます。
それもやはり、神様ごとに違いを感じます。
それぞれの御神徳があり、魂は、その中で選択した生き方をしていると感じます。
人間はどうしても「形式」という形の中に入りたがります。
それが合っているからと思い込んでしまい、それを行うのです。
「形式」を行えば「神様」に念が届くという事ではなく、「形式」にとらわれず、信仰心というものは、自分の思うままで良いのです。
ただし、どうしても「感謝」を現わす方法として「形式」が示されると、それが他者の作った「道具箱」であっても、それを信用して使ってしまうでしょう。
なので、「ほどほどに」という事で良いのです。
私達の知識は「道具」に過ぎません。
その為、「道具」に振り回されない程度に納める心がけが、生活のあらゆる所で必要です。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。