こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回は「神様カテゴリー」にて投稿したいと思います。
あまり一般的ではないと思いますが、「千躰荒神様」をご参拝させて頂きました。
こちらが、「海雲寺」のホームページです。
http://www.sentaikoujin.com/01sentaikoujin/index.html
元々、「荒神様」は霊験利益があらたかであり、数多くの信者様がいらっしゃる神様であります。
ところが、あまり一般的には感じない部分がございます。
それはきっと、どこかで「怖い神様」とご理解されている部分も多々あるせいであるとも思います。
基本的には「荒神様」は台所の神様として有名です。
「荒神様」が「火」と「水」を司る神様であり、台所を守ってくれているのです。
そんな品川の荒神様は「千躰荒神」と呼ばれています。
これは「島原の乱」の際に、「鍋島甲斐守直澄公」というお方が荒神様に必勝祈願をした所、1000人の神兵が現れて、暴徒を鎮圧できた事から、このように呼ばれるようになったようです。
その後、鍋島家にて「ご尊像」を守護してきましたが、1770年(明和7年)に、こちらの海雲寺に「千躰荒神様」が勧請し奉られたそうです。
関東では、これほどしっかりと「荒神様」が奉られている場所は少ないのではないでしょうか。
堅苦しくはない、開かれたお寺であると感じました。
こちらにお住いの方々のお気持ちの現れでもある事でしょう。
中に入ると、このように飾り物が所狭しと飾られていました。
ちなみに「三宝大荒神」と呼ばれるのは、「荒神様」が「仏法僧」の三宝をご守護している神様であるからです。
「荒神様」については、細かい事を申しますと、私的に「深み」に陥ってしまいそうで、簡素にご紹介させて頂きますと、「神道」や「密教」や「山岳信仰」の中で融合して生まれたような神様であります。
修験道の開祖である「役行者」により、私達の世界に現わされた神様です。
「役行者」は、いわゆる「大法力」を得た当時のエスパー的存在として有名です。
こちらの奥に「千躰荒神」が奉られています。
どうしても写真を撮りたかったので、聞いてみました。
「写真を取りたいのですが、中に入れませんか。」
それがダメなようなのです。
中には入れないそうです。
写真は問題ないと言われましたが。
ちなみに11月の27日と28日は「お祭り」がある為、その日なら問題ありませんと言われました。
しかし、その日、私は仕事で行けません。
そこで、動画がありまいたので、これで我慢します。
肉眼でなら確認できる「千躰荒神様」ですが、細やかですが、写真に納めさせて頂きました。
左上の像が「千躰荒神様」です。
それは「日本」で生まれた特有の神様である事が、それは伝わってくるものでした。
私は、こうしたお寺が好きですし、雰囲気も大好きです。
以前、「私がご参拝した「待乳山聖天」」という投稿時に、どうしようもない体調不良であった事を、何気なく書きました。
実は、「海雲寺」に訪れるまでの約半月以上の日々、本当に「何もやる気が出ない」ような、「灰」になったような疲労感に悩まされていました。
もう、何をしてもダメなのです。
私の体調不良の証拠が解るのは、一番初めの「海雲寺」の写真が傾いていますでしょ。
その他の写真も傾きが多いのです。
後で気が付いた事でした。体が自然と傾いていたのです。
さて、その日は「海雲寺」に1時間近くいました。
天気も良かった事もありますが、参拝客も少ないですし、まったく気兼ねする事がないので、「海雲寺」の雰囲気を堪能しておりました。
そうしましたら、あら不思議。
体調不良が治ってしまいました。
気分爽快。一瞬にして「晴ればれ」した気分になっていました。
ぜひ、再度ご参拝しいお寺になってしまいました。
(決して、神徳ハンター的な思いばかりではありませんが。)
実は、今回も「千躰荒神様」に対しまして、こんな気持ちを話しました。
「実は私、ブログをやっています。多くの方々に支えられて、ご覧になって頂いております。「千躰荒神様」をブログでご紹介させて下さい。多くの方がご覧になり、その神徳がわかりますよう、皆に知って頂けるよう、どうぞ宜しくお願い致します。」のような内容を話して参りました。
こちら「海雲寺」はJR「品川駅」から東急「青物横丁駅」まで4駅で付きます。
駅を降りますと、正面に「交番」が見えると思います。
駅を降りたら、右手に進んでください。
信号が見えますので、その信号を右に進みます。
少し歩くと「品川寺」がありますが、それをこえた所に「海雲寺」がございます。
駅を降りてから、そんなに苦になるほどの距離ではないので、問題はないと思います。
今回、ご参拝してつくづく思いました。
人間誰しも、「神性」のようなものを持っています。
しかし、人間は誰しも、つい無理をして、その大切な「神性」を消費してしまいます。
「神性」は消費する事も必要かもしれませんが、「磨く事」が大切なのでしょう。
「磨く事」を念頭に置いていれば、そう簡単に「神性」を浪費する事もなくなる気がしました。
「煩悩」という言葉がございます。
その内に「欲」がありますが、この「欲」は正しく消化されない状況が多々あると思います。
「誰かの為に」という正義心も、また「欲」であります。
他者の犠牲心を心がける事もまた、「欲」であります。
私は、この「欲」が、もっとも「神性」を浪費するものではないかと思っています。
何故なら、人間は自然と他者の為に、自分を費やす事を正義としている部分があるからです。
私が現在、思う事ですが、だからこそ「神性」は「欲」に浪費するのではなくて、「磨く物」であると感じています。
「海雲寺」にて、そのように感じる事が出来た事も、私の大切な収穫のひとつで御座います。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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