こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回は「哲学カテゴリー」にて投稿したいと思います。
エロスについて投稿したいと思います。
これは大切なことですが、戦後の日本人が消極的に過ごしてきた部分であると思います。
以前、プラトンの投稿にて「イデア」の世界を話させて頂きました。
「イデア」の世界とは、完全なる世界の事です。
私達が目にする全ての物は、完璧な物ではありません。
測定器で100%の合致を見ても、その測定器が本当に100%で測定したとは言えません。
あくまで測定器の100%に過ぎません。
このように、測定も出来ない次元の先にある完全なる世界。
この世界を「イデアの世界」と呼びます。
この「イデアの世界」は完璧であり、その模倣状態が現代に現れています。
この世界は「イデアの世界」の模倣でしかありません。
実際のところ、この「イデアの世界」を望むなら、そこからは際限ない収穫があるわけであります。
この「イデアの世界」という完全なる世界と一体になろうとする行為や、そこに帰ろうとする気持ちを「エロス」と呼びます。
一言で「エロス」を「愛」とも表現します。
つまり、イデアの世界と一体となる「愛」こそ、「エロス」と呼ぶのです。
よく言われる「エロス」は「美」という分野に見られます。
つまり、「イデアの世界」に完璧な「美」がある事になります。
それを追い求めるのが「美」のエロスです。
この内、最高のイデアと呼ばれるのが「善」のイデアです。
この「善」のイデアを「エロス」しますと、常に人生は幸福に満たされることになります。
このような目に見えない、真実の世界である「イデアの世界」には「形」がありません。
故に、「形式」ばかり追い求めると、「イデア」を見つめる為の「エロス」が失われてしまうのです。
「エロス」が失われると、真実の世界を見つめる「愛」の力が無くなってしまいます。
こうなりますと、人間は「マリオネット」のような人形と同じような存在になるのです。
さて、よく「欲望はいけない」という言葉を聞きます。
欲望のままに、成果を求め続ける事は身を滅ぼすとも言われます。
つまり、「欲望」は悪であると聞いた事があると思います。
しかし、「イデアの世界」を追い求める「エロス」と、「欲望」とは別の事であります。
究極の完全なる世界である「イデアの世界」を追い求める事は、まったく問題ないのです。
私達の理性は、常に「真実、善意、美」を求め続けています。
それこそ、最高の「イデア」であり、「エロス」という「愛」が、自然と追い求め続けるのです。
ただし、欲望は違います。
欲望は「イデアの世界」には無いのです。
「アダムとイブ」のお話を思い出してみて下さい。
神様がリンゴを食べるなと言うのに、リンゴを食べてしまったお話です。
リンゴを食べると、幸せな世界が一変してしまいます。
苦しみに満ちた世界が広がりはじめます。
このリンゴが「欲望」になります。
リンゴという「欲望」を食べる事自体は悪くは無いのです。
ただし、ある程度の「節制」が必要なのです。
自分が「破滅する」や「このままではいけない」と思う欲望に対しては、「節制」が必要なのです。
誰でも、「欲望」の最果ては見てきたはずです。
その為、「欲望」の事実や本質は解っているはずです。
そうした気持ちには「節制」をします。
「欲望」とは違う、常に快感を与えてくれる世界である「イデアの世界」から真実を受け続ける行為である「エロス」は無制限に続けて良いのです。
「エロス」は無制限に続ける事で、私達に「真実、善意、美」を教え与え続けてくれます。
この状態が「アダムとイブ」のお話で、リンゴを食べない状態です。
わざわざ「リンゴ」を食べなくても、最高の状態を「神様」が用意してくれ続けているのです。
ただ、どうしても別の快感を得たくなるでしょう。
それが「欲望」です。
この「欲望」に対しては「節制」する事が大切になります。
その理由は「イデアの世界」から遠うのいてゆく行為だからです。
「欲望」には「欲望」しか解決策はなく、視野もそこに限定されます。
だからこそ、「イデアの世界」を見続ける「エロス」という「愛」と、「欲望」を「節制」し続ける、人間の「意思」が必要になるのです。
この「意思」は、「魂」を保有する者にしか解らない事です。
「エロス」とは、究極の理想世界が完全体としてある「イデアの世界」とつながる為の「愛」のことであります。
この「エロス」を「美」という言葉だけに限定してはいけないのです。
「真実、善意、美」という3つと繫がって、人間の生を充実した生活に導く事ができるのです。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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