こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回は「思想カテゴリー」にて投稿したいと思います。
マルサスは、1766年2月14日~ 1834年12月23日までに活躍した、英国の経済学者です。
その有名な考察が、マルサスの「人口論」になります。
マルサルが活躍していた当時は、産業の機械化が進み、富裕層が増えてゆきました。
それに平行して、イギリスでは人口が爆発的に増える状況になってゆきました。
しかし、人口が増えても、人間の生活水準が豊かになると言う事はありませんでした。
理由は、食糧などの生活必需品には「限り」があるからです。
そうしますと、「飢餓」や「貧困」や「病気」が蔓延し始めます。
そして「戦争」などの争い事が発生し始めます。
つまり、「生存競争」という事態が自然発生的に起こる訳です。
そして、それは「集団」と「集団」との間に発生し始めます。
こうして「自然淘汰」の中で、質の良い生活環境を実現してゆきます。
マルサスの「人口論」は、おおよそ、こんな感じです。
ただしかし、マルサスの「人口論」に何故か該当しない国を感じるのです。
ずばり、日本です。
私が以前から、個人的に不思議だなと感じる事案でした。
戦後、日本では爆発的に人口が増え始めます。
その間、一般的には「食糧が有り余っている」イメージがありましたが、実際には家のローンなどを組んで、一か月あたりの食事を制限している方々も見てきました。
また、職に就けずに、食べる事や住むことに苦労する方々も見てきました。
私が社会に出てから、その傾向はさらに目のつくものになってゆきました。
「飢餓」や「貧困」はあたりまえのようになりつつあり、社会問題として考えられるようになりました。
とてつもない「不安」の中で生活を続ける方々が、あまりもに多くいるという現実を見てきました。
ただしかし、日本では、マルサスの「人口論」で言われるような「集団」による「集団」に対する抗議行動も、つまり運動も見られませんでした。
日本では「飢餓」や「貧困」や「病気」が蔓延しても、特に争い事が発生しません。
つまり、淘汰されてゆく側は、別に戦った訳ではないが、「飢餓」や「貧困」や「病気」を自然と捉えて、自己的に消えてゆくという事です。
何か、生物的に不自然な気がするのです。
私は、人間に当たり前のように大切な事柄として「衣食住」があると思います。
この「衣食住」に対して日本を「親」として見た時に、あまりに「親密さ」を感じるのです。
「衣食住」を取り除いてしまうと、生活なんてとても出来ません。
ズバリ、この「衣食住」の正体を申しますと、日本が純然たる「社会主義国」であったと言う事実です。
それは明治時代から受け継がれる「官僚主導型」の国家形態である事です。
しかも都合よく、その頂点に「天皇」を添えました。
「衣食住」の存在が、まるで「形式」のように常道化してゆき、私達のご両親の多くは「形式」という大きな存在の中に育まれてきました。
いわゆる「高度成長時代」です。
そこで新たに「形式」は強化され、人間の「魂」よりも、「魂」を入れる「衣(ころも)」を重視する社会視野が生まれてきます。
さて、「柳原白蓮」と言う方の展示会が池袋でございました。
私も足を運ばせて頂いたのですが、改めて思う所がございました。
それは「明治」「大正」「昭和」の前期までの方々は、それは「社会的な制約」があろうとも、「自己」という「言動」を持っていました。
「苦しみ」に対して涙する事も出来ましたし、激しく行動する事も出来ていました。
ところが、「社会主義国」のように「衣食住」がコントロールされているかのような状況では、「飢餓」や「貧困」や「病気」が蔓延しても、集団による反乱は起きにくい傾向に陥ります。
いまだ衰えを見せない事案である「虐待」という問題に関しても、反抗できない理由には「衣食住」が握られているからであると、少しは思います。
「衣」をまとわされ、「食」を管理され、「住」を中心とされては、もはや何も出来ません。
「魂」は衰退してゆきます。
よく、外国人が日本を訪れて、その街並みが綺麗に見えたり、親切心を感じるという意見を聞きますが、そのように思われる日本人は、実際は少ないと思います。
大半はつまり、「知らないから他者を真似しているだけ」に感じるんです。
この典型的な例が、日本の「衣食住」に現れている気がするのです。
「形式」さえ良ければ見栄えもよく、そのまま「形式」の支配の元に過ごせば良いでしょう。
しかし、その為に「個性」のなき世の中が繰り返され続けます。
マルサスの「人口論」で言われる「自然淘汰」が、常に都合の良い風潮の中で、人間を「自然淘汰」という行いを続ける社会にある気がするのです。
そこに、本当に「魂」の意識的な「集団」はなく、「飢餓」や「貧困」や「病気」の上に淘汰されてゆきます。
淘汰された者は、「個性」という自己すら見抜けずに、無くなって行くのです。
淘汰した側も、「個性」という自己すら見抜けずに、無くなって行くのです。
つまり、良きものが何も残らないのです。
この世界に何が起こっているのかを、身をもってリアルに感じ取る「体」を持っていても、その状況をクリアする「魂」がない限り、マルサスの「人口論」は日本には通用しません。
皆々様が、自由自在に人生を過ごせるように、そんな国であって欲しいものです。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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