こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回は「思想カテゴリー」にて投稿したいと思います。
「ボードレール」は、1821年4月9日から1867年8月31日にかけて活躍したフランスの詩人です。
もう何十年前に読んだ詩集なのですが、ご紹介したいと思いました。
私は、こうした挑戦的な詩が好きです。
ただ、「ボードレール」の場合は、しっかりと現実を観察して、人間の存在を表現しています。
「悪の華」に書かれていた詩ですが、解りずらい為、文章で書かせて頂きます。
愚劣、過失、罪悪、貪欲が
精神に住みつき、肉体を掘り返し、
乞食が 虱をやしなうように
ぼくらは 大好きな悔恨を育てあげる。
罪悪はかたくなで、悔恨はだらけている。
懺悔をしても 思惑たっぷり、
卑しい涙でけがれを一切洗い落とした気で、
はればれとした顔で 泥道のほうに戻ってくる。
悪の枕もとに 魔王トリスメジストが出現し、
魅入られたぼくらの精神をいつまでも寝かせつけ、
ぼくらの意思と呼ばれた 貴金属も
この物知りの化学者のおかげで残らず煙と化する。
悪魔こそぼくらをあやつる糸を握っている!
忌わしいものに魅惑を覚えて、ぼくらは
日ごとに一歩ずつ地獄へと落ちてゆく、
悪臭を放つ暗闇を、恐れもせずに横切って。
老いぼれ娼婦の さいなまたれた乳房を
舐めたり 噛んだりする 文無し蕩児のように、
道すがら こっそりと快楽を 盗んでは
力をこめて絞りつける、しなびたオレンジのように。
数知れぬ回虫さながら ひしめき合って、
悪魔の群れが 脳髄のなかで酒盛りを開き、
息をするたびに 見えない川の 死が
かすかにむせびながら 肺のなかへ降りてゆく。
暴行、毒薬、短刀、放火などの
痛快な図柄で ぼくらの哀れな運命の
月並みのカンバスを 今でも飾れないのは、
あわれ!それほど大胆になれないからだ。
しかし、金狼、豹、山犬、
猿、蠍、禿鷹、蛇など、
ぼくらの悪徳の 醜悪きわまる動物園で
鳴き、吼え、唸り、這いまわる怪物にまじって、
ひときわ醜く、性悪の、けがらわしい獣がいる!
あまり身動(みじろ)ぎもせず、ひどく叫びもしないが、
そいつはいそいそと地球を廃墟にして、
あくびをしながら 世界を飲み込む。
それこそ倦怠(アンニュイ)!――思わず涙を目に浮べ、
水煙管(ウカ)をふかしながら 断頭台を夢みている。
読者よ、君はこいつを知っている、この優雅な怪物を、
偽善の読者、 わが同類、 わが兄弟よ!
この詩を読んで頂き、そこに理解できる事は、人間こそは「悪魔」になる事です。
「ボードレール」の、この詩は、如実にその事を現わしています。
この詩は力強く、解説の余地もありません。
凝縮された詩です。
さて、何故に「ボードレール」を投稿したいかと思ったかですが、またこうした事件が発生している事を知ったからです。
学校に促され登校、再びいじめに 群馬・太田の中1女子
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151127-00000032-asahi-soci
いや、以前から「ボードレール」を投稿したかったのですが、なかなか書き残すだけの気力が湧きませんでした。
さて、この詩の中では、人間がまざまざと描かれております。
人間の悪の在り方の究極と言っても良いかもしれません。
この中で、私が特に大嫌いな「悪魔」の行動に対して「操る」という行動があります。
「悪魔こそぼくらをあやつる糸を握っている!」という一文を、「ボードレール」も入れていますが、まさに「悪魔」は人を操るのです。
その典型的なターゲットが「善人」です。
「悪魔」は自信たっぷりで、正義の理屈を並べて、「善人」に対峙します。
「善人」は通常、正しい事を守る事を正義として生きておりますので、すぐに「反抗」が出来ないのです。
また「悪魔」は、意味の解らないような単語を「正義化」して正当化させて、「善人」に対峙します。
これにより、「善人」は判断が出来なくなり、「悪魔」の言いなりになってしまいます。
また、困った事は「悪魔」が、自分を「悪魔」だとは理解していない事です。
その為、徹底的に「善人」を自分の理解している正しさの方向へ修正する、もしくは攻撃の手を止めません。
「悪魔」は悪気がなくとも、勝手に「善人」を追いやります。自然発生的にです。
「悪魔」はただならぬ「妖気」を発していますが、自分では理解していません。
「悪魔」は自分が「善人」であると思っています。
「悪魔」は言葉を止める事を知りません。常に不平の矛先を「善人」に向けます。
「悪魔」は責任を取りません。かならず「いいわけ」を「善人」に押し付けます。
「悪魔」は他人を理解しているつもりで、自分しか理解していません。理解しているつもりですが、それは自分の都合なのです。
私は、このような人間が大嫌いです。
確実に、人間を活動停止な「死」の状態に誘います。
しかし「悪魔」は「反省」を知らないので、同じ行動を続けて止める事を知りません。
つまりは、どこに向かって生きているのかが解りません。
触れ得ざる者なのです。
会社で発生する虐待問題、そして学校で発生する虐待問題は、いずれも同じ事ですが、こうした問題が発生する度に、何故に「命」を理解できないのかと考え込んでしまいます。
学校に促され登校、再びいじめに 群馬・太田の中1女子
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151127-00000032-asahi-soci
今回の場合は、「いじめ」の問題に対して、先生が保護者から相談を受けたが、「がんばろう」という理由で登校させたようです。
大変失礼ですが、先生方は「命」も解らないのでしょうか。
放置する事は、その生徒を「殺す事」と同じ事です。
「苦しみ」や「悲しみ」が「魂」と「肉体」にこびり付いて同化して、その現実と言う過去を取り去る術がなく、持ち続けて生きている人間を理解できないほど想像力がないと言う事でしょうか。
私は「メルロ=ポンティ 」でも投稿しましたが、人間の肉体こそが「精神」であり「脳」であるのです。
直接に世界を感じる、最も敏感な機関が「肉体」なのです。
その「肉体」が恐怖している世界に、先生は「がんばろう」という言葉で、学校に登校させたのです。
先生も、「悪魔こそぼくらをあやつる糸を握っている!」の状態にあります。
理解という発想に乏しく、悪魔の存在に気が付かないで、行動させられたのです。
そして、学校の教室では、別の「悪魔」がさっそく狙いをかけるのです。
そして、いじめを受ける方が反抗できないのは、同じように「悪魔」に魂をつかまれているからです。
魂を、下から突き上げるように握られていて、呼吸は苦しくなり、肩は重くなり、本来なら叫ぶはずの「声」も、「涙」も生成されないのです。
この世界から「いじめ」のような類の問題を排除する事は出来ません。
その理由は、そうした構造化された文化が存在しているからです。
これも「クロード・レヴィ・ストロース」の言葉を借りますと、「文化は他の文化を排除する構造を持っている」からです。
いじめる側からしたら、自然発生的に「いじめ」を起こして排除しているのです。
いじめる側に、その排除する構造が何らかの形で供えられたのです。
それは「親」であるか「先輩」であるか、解りませんが。
いじめられる側も、そのような構造から逃げ出せないのが一般的です。
逃げる「知識」という構造を持っていないのです。
きっと、ご家庭にも、その理解が欠如している世帯は多い事でしょう。
その際たる問題は、誰でも「私達」とは普通であると思っている事です。
ただ、私はきっぱりと言います。
この世界に共通した常識を保ち続けられる人間などいるはずがなく、見た事がありません。
厳格な「ロシア正教」でも、民族的な儀式中でも、さぼったり抜け駆けする行動は出ます。
つまり、人間は文化という構造内に生活していても、自我が勝手に好んだ動きを取り始めてしまうのです。
それにも関わらず、普通で一般的な態度を示そうとするのです。
それが「正義」で正しい事と思い込んでいるからです。
その状態を続ければ、表現する「表情」や「声」は人工的な響きになります。
理由は、やる気もないし、魂が抜け殻になるからです。
では、普通で一般的な態度は何であるのでしょうか。
これが科学的な「文化的視察」や「言語的作用」と片付けるならば、永遠に「魂」を感じる事は出来ません。
私が普通である人間とは、この「魂」を理解している方々です。
その特徴は、自分の考える所に行動できる人達です。
こうした方々は、一般的な文化で生活はしていますが、確実に個々の文化を形成しています。
それ故に、真実を理解しようと続けて生きています。
それは「お金」であれ「宗教」であれ「戦争」であれ、文化内に存在を誇示する生活を続けています。
「魂」のある人間は、危険を感じれば「戦う」か「逃げるか」の行動を起こします。
それを「悪魔」に駆られた人間達が「常識」という勝手にでっち上げたフィールド上に向かわせて、命を削り続ける行動を止めないのです。
「悪魔」は徹底して、対抗する勢力を排除しようとします。
私は「悪魔」が大嫌いです。
その「悪魔」に操られて、気分が重くなり、自分勝手に人を傷つける事が大嫌いです。
故に「エロス」が求められます。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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