古代ユダヤ教に見る「形式重視」に似ている今日この頃。

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「プチ神事カテゴリー」にて投稿したいと思います。

 

さて、前回の「プチ神事カテゴリー」で投稿した事でもありますが、結構な方が「神事」を積極的に行っています。

それは、何かの「セミナー」で受けた教養かもしれませんが、熱心な方々を良く見かけます。

 

「神様」との信仰を現わす方法として、「儀礼」や「作法」がございます。

故に、これを真摯に行おうとする行為をしたがるものです。

 

しかし、これは「ルター」の投稿で書いた事ですが、基本的には「心」が大切な訳であります。

 

私的に申しますと、「儀礼」や「作法」は二の次であります。

第一に「心」が肝心であります。

 

かつて、紀元前5世紀ぐらいから(かなり適当)ですが、「ユダヤ国家」がございました。 (写真は現在のエルサレム)

 

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photo credit: Western Wall with the Dome of the Rock in background via photopin (license)

  

ユダヤの人々は、自分達を「神の選民」であるという認識がありました。

 

そこで、神を敬う為に、「儀礼」や「法律」を大切にしてゆきました。

最も有名な「法律」は、「モーゼの法律」であるでしょう。

 

これは「神」が「モーゼ」に使わせた言葉です。

従わない訳にはゆきません。

 

しかし、段々と「儀礼」や「法律」が厳格な存在になってゆきます。

「儀礼」や「法律」に従わないと、処罰されるようになりました。

 

そうしますと、「神」を敬うというよりは、「儀礼」や「法律」を重要視する存在になりました。

つまり「形式的」な宗教色が強くなってゆきました。

 

このような状況が続きますと、本当に「神」に心を通わせる機会が薄れてしまいます。

やがて「ユダヤ人」の人々の間に、真の「救世主」思想が芽生え始めました。

 

この「救世主」が「キリスト」である訳です。

 

 

私は、ある神社で作法を無視してしまい、あせった出来事があります。

「祓戸大神(ハラエドノオオカミ)」という神様がおられます。

 

「祓戸大神」が祭られている神社では、ここで清めて頂きます。

これを飛ばして、拝殿に向かいました。

 

何故、飛ばしたかですが、知らなかったからです。

 

その後、神社の方に作法を聞きましたが、神社の方に言われた事がございます。

 

「あくまで、お気持ちですから。」

 

「お気持ち」が大切な訳です。

 

「形式的」な「儀礼」や「作法」や「祝詞」など、それを身に付ければ良いと感じてしまいますが、決してそうではありません。

 

確かに、信仰の表れとしての「儀礼」や「作法」や「祝詞」が出来ていれば良いでしょうが、それ以上にあるべきものは「心」になるでしょう。

 

そして、大切な事ですが、あなたに「霊体」があるのであれば、その霊体は霊界の存在です。

あなたの中にある霊体こそ、霊界につながるものであります。

よって、外に対してばかり形式的な「祈り」を行うのではなく、自身の中に対して「通じている」感覚を理解すべきであります。

(知識から発生した、別離の自分の真実ではありませんよ。)

 

 

出来る事なら、あまり「形式重視」に陥ることなく、自然と神前に向かわれる事を望みます。

気持ちが「スゥーッ」とならないと、気持ちよくはありません。

 

どうぞ、ご加護がありますように。

 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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