こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回は「日記カテゴリー」にて投稿したいと思います。
最近、よく見かけます「デモ」などの動きについてです。
この「デモ」を見る際に、「心のフィルター」として有効なのが、新鮮でフレッシュな「トマト」です。
このような文章を投稿すべきではないのかもしれませんが、これも意見として残しておこうと思いました。
私は「「心」に「正義」が必要な時代です。」という題名の投稿をしております。
http://mahakara.blogspot.jp/2015/09/blog-post_12.html
そこで「デモ」が、何故か不潔であり、つまりは息苦しいさを感じるような投稿をしました。
現行の状態を眺めている限り、少しも「デモ」側が好転する契機をうかがえません。
その最たる原因のひとつが、「生命の危機」を動かすような現実味がないからです。
「生命の危機」を感じる事がないので、「正義」が行動の中に生まれないのです。
いや、「正義」を持って行動していると言うかもしれませんが、ならば、「想う所のデモ」は成功しているはずです。
話を少し変えますが、かつて、70年前の戦後の日本では「食糧」が不足しておりました。
そこで「闇米」などが出回り始めました。
これは、法律的には「違法」です。
しかし、「生きる為」には、「お米」が必要なのです。
多くの方々が「法律」を無視して、「闇市」へと足を運びました。
人間は、生命が脅かされた状態になって、初めて足を踏み出すのです。
現在「安全保障」に対するデモが行われておりますが、「生命の危機」を直接に、心へ、にじませている方々の人数はいかがなものでしょうか。
そして、それを外から見ている方々の「生命の危機」とは、いかなる濃度を持っているでしょうか。
私は戦前の書物に目を通す機会がありますが、戦前の日本人の感覚に「直接的な死」を感じることが出来ません。
「生命の危機」とは、直接に経験をしない限りは、生みだされないものです。
日本人が「生命の危機」を理解して行動を起こせば、まず「心」には正しく「正義」があり、現在の「パラダイム」がシフトして、別のステージが用意されます。
これは「ラング」と「パロール」という投稿を読まれると、理解しやすい内容です。
http://mahakara.blogspot.jp/search?q=%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B0
基本的に、世の中の秩序とは「個人」の力では変化できません。
また、多少の団体が立ち向かっても無理な話です。
それは、国家からしましたら「個人」や「団体」など、別に無くても成り立つからです。
ただしかし、その国家とは「個人」が知恵を出し合って作り上げた存在です。
その為、国家とは「個人」の行動によっては変化してしまうのです。
その変化の行動として「デモ」を見かけますが、結局のところ、国家からしましたら「個人」や「団体」など、別に無くても良い存在として写ります。
つまりは「魅力」や「力」がないという事になります。
さて、イメージして欲しい事があります。
現在、「デモ」を行いながら「スピーチ」をしている方々を思い浮かべて下さい。
そこに、新鮮でフレッシュな「トマト」をかざしてください。
どうですか。新鮮でフレッシュな「トマト」と、「デモ」を行っている方々と一致しますか。
それよりも、少し「不潔」というか、少しよごれた「トマト」なら似合う気がしませんか。
では、こちらの写真を見て下さい。
沢山の方々が活き活きしています。
さて、新鮮でフレッシュな「トマト」が、大勢の方々と一致するか想像してみて下さい。
どうですか。一致すると感じませんか。
これが「生命感」です。
さらに、戦後の「闇市」に向かう方々と、新鮮でフレッシュな「トマト」が似合うかイメージしてみて下さい。
それは「汚い服装」かもしれませんが、戦後の「闇市」に向かう方々と、この新鮮でフレッシュな「トマト」が一致しないと言う事はないでしょう。
心から欲している「生命感」があるのです。
そして「闇市」であろうと、生きる為の「正義」があるのです。
この新鮮でフレッシュな「トマト」は、色々な場所に対して有効です。
この「トマト」が似合う場所には「人間の生命」があります。
神社などの「お祭り」がそうです。
あれだけ、モミクチャな状況でも、「生命感」にあふれています。
「人間の生命」がある場所には、社会秩序をコントロール出来うる「力」があります。
この「生命感」があって、人間は人間たる行動を社会に投影するべきです。
新鮮でフレッシュな「トマト」が似合う集団が現れ、「生命感」の「ポール」がつながれた時に、やっと「デモ」らしい風景が映り始めると思います。
本当に「叫べばいい」という事ではありません。
メッセージが伝われば良いと言う事でもありません。
人間の世界には「時間」があるので、過去になりやすのです。
私は傍観者ですので、これ以上は語れませんが、計算して、努力して、積み重ねたものは、意外と「作り物」です。
一生懸命の努力や規則も、他人の「作り物」に見えてしまいます。
人々が動き出す時と言うのは、そうした「作り物」を排除した「生命感」が映し出された時です。
今、ヨーロッパで発生している「難民問題」と新鮮でフレッシュな「トマト」を照らし合わせてみて下さい。
一致すると思いませんか。
必死な「生命感」の中に、ヨーロッパ各国の「正義」が生まれ、改善が生まれているのです。
最後ですが、実は「トマト」で無くても良いです。
「生命感」ある、瑞々しい対象であれば、問題はありません。
私は「「心」に「正義」が必要な時代です。」という投稿の中で、「人間の顔に見えますが、人間が行っている活動には見えないのです。」という一文を書きました。
人間であるならば、本来は「りんご」の写真を見ても「生命感」が一致するのです。
人間が、恥ずかしい事ですが「人間以外」と取れる感性の動きによって動きますと、例え人間が行動を行っていても、人間の尊さを感じないのです。
「私は問題なく、自分の意見を言っている」と思っていても、それはその方の「体」が話していることであり、「魂」の声かと言われれば、正解ではない気がするのです。
「宗教教団」や「会社」や「学習塾」でも良いのですが、「心のフィルター」として有効な、新鮮でフレッシュな「トマト」をイメージしてみて下さい。
そこに一致するものがあるなら、「生命感」ある人間の社会です。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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