「心」に「正義」が必要な時代です。

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「日記カテゴリー」にて投稿したいと思います。

最近、よく見かけます「デモ」についてです。

 

私は、人間に「性善説」や「性悪説」があると聞かれれば、無いと答えます。

こうした価値は、生まれた以降の付加価値です。

 

人間の特性ですが、誰でも「自分の事」を優先的に考えます。

それは「他者」をいたわっているつもりでもです。

そして、人間は必ず、他者に対して自分の影響力を与えようとします。

必ず、自分が正しい事を主張します。

そこに「善」や「悪」が観察できようと、そんな事は論外です。

 

私はこのような感覚の人間である為、最近に活発に行われている「デモ」に対しては、あまり良い印象は持っていません。

基本的には「安全保障」の問題に関してのものです。

 

どうしても、私には「吐き気」と言いましようか、そのような雰囲気を感じてしまうのです。

「戦争反対」を代名詞にしている方々の「顔つき」を見ると、それは素直に感じるのです。

 

私はとても、あの場所に足を進める事が出来ないと言う事です。

何か、決定的な何かの違いを感じるのです。

 

逆に「戦争賛成」の方々の動きに対しても同様です。

やはり、私には足を進める事が出来ません。

 

「声を上げなければ」という風潮があるかもしれません。

しかし、私は足を進める事が出来ません。

 

初めに申しました通り、「性善説」も「性悪説」も、どちらでもない私という存在があります。

私がこの境遇になったのは「神社参り」があります。

 

よく、人間は「神様」の前では「媚びへつらい」、頭を下げるものです。

私も、その感覚は解るのです。

しかし、ある「神様」の前で、「神様」が良く思っていないという感覚を覚えました。

 

「神様」に対して「媚びへつらう」姿勢では、まるで「神様」が怒っている気がしたのです。

それ以降、私は「自分自身」を保つ事を心がけています。

 

私には「善」や「悪」は、ある意味ですが「同等」なのです。

 

「善」も「悪」も同様に人の心に作用して、人間に影響力を及ぼします。

「善」だけが正しい訳ではなく、「悪」がまったく悪い訳ではありません。

 

私が「吐き気」を覚えてしまう「デモ」とは、まさに「善」と「悪」という単純な姿勢が運動をしているだけに感じるのです。

人間が、何か「ダンス」でも踊っているかのような感覚です。

 

「ダンス」を踊っている人間が、人間ではない気がするのです。

この感覚は私だけではないはずです。

人間の顔に見えますが、人間が行っている活動には見えないのです。

 

だから、私は「吐き気」を覚えますし、足を進められないのです。

 

端的に申しますと、「安全保障」のデモをなさっている方々の「面」と言いましょうか、平たい「面」に「善」と「悪」があるだけです。

 

それに積極的に「言葉」を展開していますが、最も大切な「正義」が欠けています。

それは、人間の最も大切な部分です。

 

「ヨーロッパ」のデモでは感じる事ですが、「心」に「正義」があるのです。

 

まず、人間として「心」に正義があり、その上に「善」や「悪」の行動である「デモ」が感じられます。

これは「キリスト教」が文化の根幹に根ざしているからだと思います。

日本人には無い感覚なのです。

これも私の独断の感覚ですので絶対的な事ではありません。

 

しかし、今の「安全保障」のデモには、「心」に「正義」を感じる事が出来ないのです。

ただ「危ない」とか「自衛の精神がない」という主張以前に、「正義」の集団に見えないのです。

 

何か「不潔」な、そんな雰囲気を覚えるのです。

 

故に、私は「吐き気」を感じるのです。

 

何を守るべきであるか。

当たり前の言葉ですが「自由」を守るべきです。

「正義」の「自由」を守るべきです。

 

「自由」とは何であるか。

「自由」を理解しなければなりません。

 

「自由」とは「安全な場所」の事です。

安全な場所を確保して、それは物質的に空間的に、時間的に自分を収める方法を手に入れられるものです。

自由とは「安全な場所」の事です。

 

この「安全な場所」に誰もが共通に収める自由があります。

それが「生命」と「財産」です。

 

今、この「生命」と「財産」をテーマに「安全保障」のデモを捉える時、両者に同様の利点が浮かび上がります。

しかし、その利点は「商品」のような「価値」しか見えないのです。

 

「ショーウインドウ」に並んだ商品にて、どちらが好きであるか嫌いであるかの違いしか、見えないのです。

いや、運動をおこなっている方々は、そんな事はないと思うことでしょう。

 

しかし、「安全な場所」に思考を巡らせる限りでは、「ショーウインドウ」に並んだ商品を「安全な場所」に設置しようとする試みしか感じ得ないのです。

 

「正義」という魂が、人間に宿り、「安全な場所」という「自由」を目指すなら、「デモ」は別の美しさを示すでしょう。

 

その時に初めて、「パラダイムの変換」が行われるのです。

この革命的なエネルギーは弁証法で説明できます。

 

ただし、「パラダイムの変換」に携わる人間には「精神」が必要です。

決して「商品」になってはならないのです。

「ショーウインドウ」に並んだ商品を眺めて、そこに映り込む自分を眺めて満足してはならないのです。

 

その「パラダイムの変換」に必要な精神が「正義」なのです。

 

「正義」が欠けては、ただ「ショーウインドウ」に並んだ商品の価値を論議するしか、道が見えないのです。

 

最後ですが、THE ALFEEの曲で「Heat of Justice」という歌があります。

高見沢さんが、強烈に「正義」を歌っている曲です。

 

心に正義がないと、「善」や「悪」を取り扱うことは困難なのです。

安易に行動しても、看板をぶら下げているだけです。

 

今、聞いてほしい曲であります。

 

 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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