「お願い事」をする時の本質(こんな仕方もありますよ)

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「プチ神事カテゴリー」にて投稿したいと思います。

 

神社などで、良く見かける光景がございます。

神様に対しての「お願い事」です。

 

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「神社は「お願い事」をする所ではないよ」とか言われたりします。

もしくは「宣言する場所」など言われたりします。

 

しかし、私は「神様」にお願いがあるのでしたら、お願いをすれば良いと思っています。

 

しかし、普通の方々の「お願いの仕方」に、やや問題が見受けられるのです。

 

・「健康で過ごせますように」

・「お金が儲かりますように」

・「彼女と恋人同士になれますように」

・「世界が平和でありますように」

 

おおよそ、このような「お願い事」のスタイルになると思います。

ただ、これでは不十分なお願い事になるのです。

 

・「健康で過ごせますように」 → 「健康で過ごそうとする状態が続くだけ」

・「お金が儲かりますように」 → 「金策をめぐる状態が続くだけ」

・「彼女と恋人同士になれますように」 → 「ただ、望んでいる状態が続くだけ」

・「世界が平和でありますように」 → 「想っている状態が続くだけ」

 

結果としては、現実の結果には結びつく事もない状態が続くように見えます。

 

 

 

私は「祝詞」など見ていると、おおよそ「法則」のような事を感じます。

 

ユダヤ人で、約100年前ぐらいに「ネヴィル・ゴダード」という人物がおりました。

その方は、「想定の法則」という本を書き残しています。

 

ユダヤに伝わる技法なのですが、「想定を強く思い続ければ、現実になる」という物です。

 

こうした書物は沢山ございますが、結局のところ、基本はこんな感じです。

 

「未来に対して、想定(願いを完了した状態)を行い、常に続ける」

 

私がユダヤ人「ネヴィル・ゴダード」の「想定の法則」という例を出した理由は、何となくですが神社のお願い事に一致すると感じたからです。

 

私の投稿で比較的に読まれています「祝詞」を繰り返して読み続けていれば解る事ですが、この「祝詞」は「過去」や「未来」がないのです。

(いや、ある事はありますが、そう言うことではありません。)

 

「大祓詞」などは「過去」の産物でありますが、常に起こりくる「現在」に対して有効です。

 

その理由は、常に「祓いたまえ 清めたまえ」の状態を「想定」し続けているからです。

 

これをもっと解りやすくします。

 

天津祝詞後半を、少しもじって展開してみます。

 

 

・「健康で過ごせますように」

 

病気を祓っていただき、健康になっている事を、どうかお聞き届けください。

 

・「お金が儲かりますように」

 

貧乏を祓っていただき、お金が潤っている事を、どうかお聞き届けください。

 

「彼女と恋人同士になれますように」

 

諸々の困難を乗り越え、彼女と一緒になれた事を、どうかお聞き届けください。

 

・「世界が平和でありますように」

 

諸々の過ちや、罪や穢れが祓われ、平和になっている事を、どうかお聞き届け下さい。

 

私は祝詞を口にする際には、このように「完結(決定して終わっている)」の状態が展開される事をイメージしております。

 

もしも、「この世」と「あの世」があるならば、「この世」の現実と「あの世」の現実に対して、想定された結果の事実を設定してしまうのです。

その「お願い事」の仕方が「完結(決定)」したイメージの言い方です。 

 

 

「現身の身にも心にも、罪と言う罪はあらじと祓い給い清め給うへとまおす」

 

これは、ある「大祓詞」の一文です。

 

私達が生活している世界とは、現在に生きている世界です。

現実に生きている世界があるのでしたら、現実でない世界があるでしょう。

 

それが「霊界」や「神界」になるでしょう。

 

私達の生活とは、現実に即した現象のみでは追い切れない「何か」があります。

 

故に、現実の世界に「お願い事」を願うだけではなく、「あの世」に対して、「お願い事」を設定してしまうのです。

いや、設定するとはイメージであり、目的の達成を伝えると言う事です。

 

神様に対しての「お願い事」と言うのは、「~でありますように」ではダメです。

 

「~でありますように」ですと、その「~でありますように」と願い続ける状態が続きます。

 

「様々な経験や努力の結果、問題が終結した事実を、どうがお聞き届け下さい」

 

様々な過ちや問題を起こしましたが、祓っていただき、清められた事を、どうかお聞き届け下さい。

 

このような感じにしないと、「お願い事」としては弱いのです。

現実にすべき世界を「想定」させるには、「完結」した事実をお聞き届けて頂く必要があります。

 

ただ、私は神社に「お願い事」を頻繁にすると言う事はありません。

いや、実を言いますと、拝殿もあまり好きではありません。

 

ただ、やはりお会いしたい神様がいらっしゃるので、足を運びます。

 

私が「お願い事」を目的として神社に通っていたならば、いまだに「お願い事」だけの自分になっていたでしょう。

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。