こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は「プチ神事カテゴリー」にて投稿します。
題名があまりにも単純ですが、たまには神社に行くと良い思いをします。
私、今まで本当に疲れた時には、よく神社に行っていまいた。
不思議な事ですが、疲れが取れるのです。
この神社という場所の事ですが、古来より、力強い場所に建てられ続けたようです。
その為、その土地の力もあるのです。
そんな神社ですが、私自身が、このような気分屋なので、どうしても足が運ばない時があります。
理由もはっきりしています。
別に、神社に行く必要なんてないよなと、ふと感じてしまうのです。
逆に、行ったら行ったで迷惑になるよなと、ふと思ってしまうのです。
ところが、おおよそですが、その思惑は外れます。
神社に行って良かったと思うのです。
明らかに、心も体も軽くなって、付き物が取れたような気分になります。
私が感じることですが、最も大切な事は、そこにある「ご縁」です。
「ご縁」とは、実は単純なものではありません。
「縁起」があって、そこに「生と消滅」が発生しています。
この世のあらゆる出来事は、この「縁起」のライン上に発生しているのです。
私達が、あらゆる日常の現象を目のあたりにする時、それが有ると言う事実を特に深くは考えませんが、全てに「縁起」が働いて、「生と消滅」が続いています。
私がブログを投稿しているのも、間違いなく「縁起」のおかげです。
私が神社におもむき、その「縁起」を通じて感謝します。
その「縁起」の上に、ますます発展する「幸せ」を想像する事ができます。
その「幸せ」は、私だけに留まる事ではありません。
その私の気分の影響を受けた方々に伝わって、「縁起」はますますつながります。
だから、私は神社では、この「縁起」の上に感謝を感じて伝えようとします。
そこには発展しか見えません。
例え「消滅」が選択肢にあったとしても、私は「消滅」を選びません。
「消滅」を選べば、「消滅」の「縁起」が働きます。
この世の出来事は、実は人間が安易に「悲観」におちいる、もしくは自分以外の相手に対して、決めつけた「不快な気分」を送り続けても良い事はありません。
決定的に言える事実は、「幸せ」も「不幸」も、私達の内側の判断にゆだねられています。
どんな他者も、あなたという存在を変える事は出来ません。
本来は出来るはずがないのです。
あなたの判断以外に、あなたを変えられる存在はこの世にはありまえん。
もしも、あなたが、いや、あなたが接する人間が不幸に見えるのであれば、その方の不幸は、その方が「望んで」、そうなっているのです。
「幸せ」になるか「不幸」になるか、これは自分が「選択」した時に、その方向に動き出します。
自分が不幸である現実があるとして、環境や社会の問題を上げる人がおりますが、そうではありません。
「不幸」という生き方を選んだ時に、そのように自分の人生が動き出すのです。
ただし、「不幸」であるのか、それが解らない時があります。
自分は問題ないと感じていても、神社に行ってみたら、心も体も軽くなるのです。
人間と言う存在は、知らず知らずの内に汚れており、それが自覚できないから怖いのです。
だから、たまには神社に行くと良いと言いたいのです。
神社が嫌であれば、何かしらの「聖人」に触れる事です。
私は、本当に「聖人」の言葉に救われています。
何か、この世界に貢献した人物の残したメッセージ。それは本当に私を救ってくれます。
私が孤独感に付きまとわれる時、そのメッセージは私を孤独から救ってくれます。
そして、その時に立ち直る事が出来るのです。
私の内面を祓い清めてくれるのです。
哲学にしかり、古典にしかり、自己啓発にしかり。
しかし、たまには神社に行くと良いでしょう。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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