ジャック・ラカン 「象徴界」と「他者のディスクール」 ②

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

本日は「哲学カテゴリー」にて投稿します。

 

前回の続きになります。

ジャック・ラカンの「象徴界」と「他者のディスクール」についてです。

 

ラカンは自身の思想で「現実界、想像界、象徴界」というモデルを作りました。

詳しくはネットを見て下さい。(また、手抜きをします。)

 

以前に「アラン思想」でも述べた事ですが、人間は「模倣(もほう)」を行うのです。


「言語にはひたすらそれ自体を対象とする部分があり、言語が思考の全部てをしめてしまう段階がある。理解するとは単にコミュニケ-ションが成り立っていることを知るにすぎず、それ以上を求めずに模倣することなのである。模倣し、かつ自分が模倣されていることを知ることである。」

*(アラン芸術論54ページ 1行目~5行目)


 

人間が「自己」という「主体」を作り出す基本は、「他者のまね」から始まります。

 

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この「模倣(もほう)」は「言葉」として、人間に伝わります。

そして「模倣(もほう)」は、「象徴」なのです。

 

人間は、この「無意識」のうちに「意味するもの」としての「まとめ」を行います。

 

ただ、「無意識」という世界はありません。

機械的に「象徴」となる事を「模倣(もほう)」します。

 

この「象徴」となる「言葉」の集まる世界(次元)を「象徴界」とします。

 

 

この「象徴界」とは、いままで私達が普通に考えてきた世界とは違います。

 

つまり「信念」とか「真実」が、人間の根源から湧き出るという意識ではなく、もしくは「神」が存在するという姿勢でもなく、そんな世界はないのです。

 

ただ、自分が生きてゆく上で、この世界を体現する。

その時に感じる、見る、聞く、その「象徴」のみが「基礎」になっているのです。

 

だから、その「象徴的」な世界しか、感じ見ずに、そして体験していない人間は、それ以上の「言葉」を持っていないと言う事です。

 

 

そんな閉ざされた世界を、ジャック・ラカンは「他者のディスクール」と呼びます。

 

「他者のディスクール」とは「他者の言説」の事です。

 

 

私達が普段、自分の「意志」と感じている「魂」や「自我」とは、ここにはありません。

あくまでも、私達の「無意識」とは「構造化」された存在としてあります。

 

ここでの「構造化」とは、「他者」が話す「言葉」の「世界」が折り重なって「自己」の中に出来上がっている状態です。

その為、「自分の意志」と感じる行動も、それは経験を重ねてきた「他者の言葉」の集まりによる行動になるのです。

 

 

前回の投稿で「植松聖容疑者」を例に上げましたが、あの人の行動は一般の方には理解できない行動として現実に現れてしまいました。

 

ただ、彼の中では「正当」な「言葉」があったのです。

「ヒトラー」という人物名も上げていました。

 

「相模原障害者施設殺傷事件」に関して、刑事的責任の追及や、それに伴うネットでの反響など、けっこう見ました。

 

さて、彼をどのような処置にするかが問題になっています。

私は「法」に基づいて、処されるが正しいと思います。

 

よく言われる事ですが、「精神疾患者」に責任能力はあるのか、ないのか。

 

ならば、彼が持っている「象徴界」を、彼の思考でコントロールする事ができるのでしょうか。

その思考は「他者の言説」です。

 

彼が言う他者は「ヒトラー」です。

 

それも、悪い部分だけの「ヒトラー」です。

 

彼には、強烈な「魔」の気を感じます。

 

まず、「反省」しない限り、どうにもなりません。

(「反省」出来ればよいのです。)

 

「精神薬」を付け込めば良いと言う問題でもありません。

 

こうしたジレンマは、「象徴界」と「他者のディスクール」という面において、各地で吹き荒れています。

 

それを「正当」な処置において考える限り、まったく効力を発揮しません。

その理由は、それに対処しようとする方と、対処される者の「世界」(次元)が違うからです。

  

 

今回は、かなり隔たった投稿になりました。

しかし、これが哲学の世界です。

機械的で人間的な血を感じない思考もあります。

 

そして「ジャック・ラカン」こそ、精神医学の世界の構造化を成したと言われる人物です。

 

   

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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