ジャック・ラカン 「象徴界」と「他者のディスクール」 ①

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

本日は「哲学カテゴリー」にて投稿します。

 

このブログを書き始める以前から、それは異常な世界の広がりを、多くの方が体験してきました。

その理由には「グローバル化」が浸透してきた為である事も、どこかで書きました。

 

様々な思想やエネルギーなど、それを受け取る側の日本人にも変化が現れはじめます。

一言で言えば、「昔と人間が変わってきた」という事です。

 

このブログでも投稿しましたが「相模原障害者施設殺傷事件」のような出来事は、普通の日常では発生しない事象でした。

こうした出来事は「特異性」を感じますが、現代にあっては「スタンダード化」する流れを備えています。

 

こうした「特異性」に対して、これまでは「自己の対策」が成されてきました。

 

それを「良心」と呼びます。

 

01OBJ01072

 

この「良心」は、我々の「深層」にある「無意識」の世界に常駐する「布石」でありました。

スプリチュアル系の「神」の存在や、心理学も含めて「無意識」という世界に「救い」を求めました。

 

(私も散々、無意識の世界について投稿してきました。)

 

「相模原障害者施設殺傷事件」のような出来事は、それを「自制」する「本能」が働く事を期待するものですが、それが発動しませんでした。

 

「無意識」にある「自制の心」は、「神」の力は、何故に発動しなかったのでしょうか。

 

 

哲学者である「ジャック・ラカン」が述べています。

 

「無意識の世界なんて、ある訳ないじゃん」

 

 

なんと、「無意識」の世界はないんですか?

「ジャック・ラカン」は、次のように考えています。

 

あくまで、「主体」を構成する為に発動させられるもので、それ自体(無意識)は存在していない。

存在しているのは「言葉」だんだ。

 

こんな感じで考えています。

 

そうしますと、「相模原障害者施設殺傷事件」のような出来事を理解する手助けになります。

おおよそ、「自制心」という物が存在しない場合がある。

「無意識」に「良心」がなければ、「自制心」なんて動くはずがない。

 

 

「植松聖容疑者」という「主体」には「無意識」の「良心」は無かった。

ただ、「植松聖容疑者」という「主体」を作る「言葉」だけが存在していた。

 

 

すると、そうした「植松聖容疑者」を作り上げた「言葉」が悪いと言う事になるのでしょうか。

しかし「言葉」なんて、いくらでも「ありふれて」います。

 

なんで、この「ありふれた」言葉から「狂気的」な言葉を選択して、自分をその言葉の「象徴」としてしまったのか。

 

何となく見えてきましたね。

つまり「象徴」的な言葉を選択すた場合に、人間は主体的な存在になってるのです。

 

ついでに、それは「自分」の言葉でなく「他者」の言葉ですね。

だから「ヒトラー」なんて人物を「代名詞的」に上げていましたね。

 

さて、ジャック・ラカンの「象徴界」と「他者のディスクール」という「言葉」を使って、次回にまとめます。

 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

0 件のコメント :

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。