こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は「神様カテゴリー」にて投稿します。
一昨日に階段からコンクリートへ叩きつけられて、右足は痛くて曲がらない。
右手も指は動くが、ダメージが「得体のしれないアザ」として現れてきている。
こうした「怪我」から得る教訓は、本当にあります。
なにせ、私は「怪我」なんて、ほとんどしなかったのですから。
だから、何かを教える教訓を頂いたと感じてはいます。
さて、そんな事から「お守り」を持ち歩こうと意を決するのですが、今日は「摩利支天」のお守りが、やけに気持ちから離れない。
そうした理由で「摩利支天」 のお守りを携えています。
そんな「摩利支天」ですが、元をたどれば「聖徳大使」です。
そうです。ここで「聖徳大使」が出てきます。
File:Umayado Miko.jpg – Wikimedia Commons
以下、「勝ち神に愛される方法」という本がありまして、その本より参考させて頂きます。
「聖徳大使」といえば「毘沙門天」を祀り、国家の安寧を基礎に置きました。
その「聖徳大使」は「摩利支天」も同時に理解があり、「毘沙門天」が「表」であるならば、「摩利支天」は「裏」として祀る事が、国家を安定させる最大の要因であると理解していたようです。
そんな折、「聖徳大使」の従兄である「崇峻天皇」にとんでもない事が発生します。
「臣下による天皇殺害事件」の勃発です。
かなりグレートな展開です。
まず、現代では考えられない展開が巻き起こります。
崇峻天皇(すしゅんてんのう)は、臣下である「蘇我馬子」に殺されてしまいます。
そうなりますと、その「息子」の命が危なくなります。
その「息子」が「蜂子王子」(はちこのおうじ)なのです。
「聖徳太子」の従兄である「崇峻天皇」の命が絶たれ、すぐに「蜂子王子」の存命が課題になります。
(以下、「勝ち神に愛される方法」P84より引用します。)
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ここで助け船を出したのが従兄である聖徳太子でした。
「蜂子王子」を仏門に入れ、弘海と名を変えさせ、自らが持つ「摩利支天神」の秘術を伝授し
東路に逃がしたのです。
「摩利支天神」の秘術の一つは聖徳太子の直系に受け継がれ、楠正成も信仰し、のちに武士がみなこぞって信仰した「気配を消す」というものでした。
「蜂子王子」は、息も絶え絶えに東北の出羽国由良に逃げ通すと、三本足の大烏が飛んできて、
王子を導き鬱蒼と茂った霊山に引き入れました。「蜂子王子」はそこでさまざまな修業を行ない、
日本の修験道の開祖となりました。
その一部始終を守護神として守り通したのが、聖穂太子が与えた「摩利支天神」だったのです。
この峰子王子が、最後に総奥の院である湯殿山を聞いたのが丑年でした。
その後、出羽三山は、霊験あらたかなる霊山であると信仰され、丑年はご縁年とされ、参拝
すれば十二回お参りしたのと同じご利益にあずかれるといわれています。
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こうして「蜂子王子」は、命が継続されただけではなく、まさに「運命」のように、生涯を大きな功績に費やすことになります。
それは、大変な、大変を超えたご苦労があった事でしょうが、「礎」という存在を日本の中に作り上げました。
本日は、「蜂子王子」と「摩利支天」の関係について投稿させて頂きました。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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