こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は「日記カテゴリー」にて投稿します。
このブログで前々回に投稿した「相模原市の障害者施設殺傷事件」で、様々な「感情」が巻き起こっている事を目にします。
尊厳否定「二重の殺人」全盲・全ろう東大教授
(http://mainichi.jp/articles/20160728/k00/00e/040/221000c?cxrecs=true)抜粋
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一方、現代の世界では、過激派組織「イスラム国」(IS)の思想に感化された若者たちによるテロ事件が、各地で頻発している。このような歴史や現在の状況を踏まえた時、今回の容疑者は、ナチズムのような何らかの過激思想に感化され、麻薬による妄想や狂気が加わり蛮行に及んだのではないか、との思いがよぎる。
被害者たちのほとんどは、容疑者の凶行から自分の身を守る「心身の能力」が制約された重度障害者たちだ。こうした無抵抗の重度障害者を殺すということは二重の意味での「殺人」と考える。一つは、人間の肉体的生命を奪う「生物学的殺人」。もう一つは、人間の尊厳や生存の意味そのものを、優生思想によって否定する「実存的殺人」である。
前者は被害者の肉体を物理的に破壊する殺人だが、後者は被害者にとどまらず、人々の思想・価値観・意識に浸透し、むしばみ、社会に広く波及するという意味で、「人の魂にとってのコンピューターウイルス」のような危険をはらむ「大量殺人」だと思う。
こうした思想や行動の源泉がどこにあるのかは定かではないものの、今の日本を覆う「新自由主義的な人間観」と無縁ではないだろう。労働力の担い手としての経済的価値や能力で人間を序列化する社会。そこでは、重度の障害者の生存は軽視され、究極的には否定されてしまいかねない。
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この文章を読みまして、改めて感じた事があります。
まず、人間だけが持つ能力。それは「知識」を道具として扱える事。
これを理解できませんと、「知識」という道具に取り込まれてしまいます。
「テロリズム」でも「ナチズム」でも、今にあって、それを扱おうとする方々は、「知識」を「道具」として扱っています。
その「道具」から発せられる「魅力」に対して、「持ち主」は誠実に接っする事を約束します。
その時に「持ち主」は「道具」によって「虜(とりこ)」にされてしまいます。
「持ち主」が「道具」に誠実になるのは、「自分」が「道具」を扱っていて、何の疑いもない、正義の中にあると思い込んでいるからです。
さて、様々な「知識」が用意される事でしょう。
それは「別次元」の上や下から流れで入るようにです。
「大名が日本人を奴隷として売っている」「神聖ローマ帝国ではユダヤが虐待された」
「純粋なアーリア人が必要だ」
「井戸に毒を入れたのは朝鮮人だ」「ヘーゲルが法の在り方を説いた」
「日本に自由なんて単語が無い」
ワードとして、言葉はいくらでも出てきます。
そして、時代によっては「正義」として捉えられる「知識」もあります。
それは「正しさ」として。
あくまで、その「知識」の「正しさ」だけの問題としてです。
ただし、「美しさ」が無いのです。
以下の文章を見てもらうと、良く解ると思います。
これは、太平洋戦争の際に発行された書物の内容を抜粋したものです。
宇宙の大元霊の御稜威は前世一系の御皇統を通じて発動する。
其の御力は無限大に強く、其の御徳は無限大に広い。吾々一億国民は、今こそ自らに宿る神の分霊を喚ぴ起し、無限大の御稜威の御力を受け、御稜威を慨して全世界兆民を此の御稜威の下にまつろはせなくてはならぬ。
御稜威を背負ふて戦ふ者は絶対不敗である。それは一以て千に当たり万に当たり、無限大に当たり得る。たとへ米英が日本に対して幾倍の速芯で其の戦力を組み立てやうとも御稜威の発動する所、太陽の直射に於ける氷の如くなるのみだ。蓋し、御稜威の御力は宇宙大に無限であるのだから。
(神々のいぶき 満井佐吉 著 P205ページ 抜粋)
つまりです。
「知識」を様々に有する事に対して、人間は得意です。
その得意さから、ますます「個性」を作り始めます。
その「個性」は「一面」のみの「知識」を「強大」にして、絶対化させます。
絶対化されると、それは「普遍的」な扱いになり、もはや「人間」は従うざるを得なくなります。
だから、その「知識の一面」だけに殉ずる行為は「下劣」なる行為です。
「知識」を扱う者とは、そこに「美」を理解しないとなりません。
「美」が見えない行為に対しては、ただ「知識」に飲まれるだけです。
様々にあふれる「テロリズム」や「ナチズム」の思想に、ただ感化されて接すれば、「知識」という「道具」の思うように動く事になります。
そこには、それ相応の「エネルギー」が流れて入れ、体内を流れ始めます。
それは「個性的」な活動を制限する可能性があります。
それを扱う者は「正しい行動だ」と理解してますが、本当の「内心」は閉じています。
「道具」に感化されてしまい、自分の「内心」の光が見えません。
自分の「内心」に向く事を止めてしまいます。
そして「知識」だけに殉ずる行為が「下劣」である事は明確になります。
「知識」は一方方向だけの単純な程度で存在していません。
「ペン」は書く道具ですが、「突く」事のできる武器にもなります。
知識も同様に、いくつもの「パターン」を持っています。
だから、単純に「テロリズム」や「ナチズム」の思想に感化されるというのが「幼稚」なのです。
「知識」の在り方が解っていないのです。
ただ、表面的な「知識」に感化されている事が「幼稚」なのです。
しかし、「幼稚」な人間ばかりが日本にいる訳ではありません。
だから、東大教授が言うような「薄い世の中」にはなりません。
私達は唯一、知識を道具として扱える存在です。
不祥事を発生させるのは、この道具使いが「見習い」だからです。
人間は「間違い」を経験して、必ず「視野」を広げます。
今の世の中に「幼稚」が溢れるならば、必ず「成熟」が溢れます。
だから、私の感覚には「良い事」しか写らない。
未来はますます、良い方向に進む。
それは、道具使いが多方面で成長して成熟して行くからです。
人間だけが持つ能力。それは「知識」を道具として扱える事。
だから、その「道具」に飲み込まれる事無く、成熟した道具使いになる必要があるのです。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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