こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は「思想カテゴリー」にて投稿します。
唐突に、「時間」は平等に存在していないとう投稿です。
もしもです。
木々の紅葉を楽しもうとして、大勢の方が森林へ出かけたとします。
ところが、ある人は「もう、十分だから帰ろうよ」と言いだし、ある人は「まだ、見飽き足らない」と言いだします。
すべての人に時間が平等であれば、このような不満は起こらないはずです。
平等に「感ずる」時間を有しているのでしたら。
ところが、世の中は違います。
学校の先生や、会社の社長が「時間は誰にでも平等にあるのだから、あとは自信の努力次第だ」と言われても、実際は上手く行きません。
ただ、こんな理不尽な世界に、唯一「正確」な「計り」があります。
それは「光」です。
この図で①と②から「光」を発射したとします。
普通、①と②では①の方が早く「矢印」の先に到達すると考えますが、そうではありません。
信じられませんが、①と②では「光」が「矢印」の先に同時に到着します。
これが「光」の特質です。
①と②という、止まった地点から「光」を発射した時には、到達する光の地点は同時なのです。
光は観測地点が違っていても、同等であり、平等なのです。
で、なに?
という展開になりますが、ここからが真骨頂です。
夏の代名詞である「花火の光」を見ているとします。
(厳密には花火を「光」と例えるのは変ですが、まあ勘弁です。)
ほとんどの方が、どの位置から見回そうが、まちがいなく「花火」でしょう。
「花火」の「広がり方」や「消え方」は、それを見ている位置から、同じように写る事でしょう。
ところが、「光の速さ」を持った見学者が、「花火の光」と同じ高速で花火を見回したとします。
(いるわけないですけど。)
すると、「花火」の光は、こんな感じで「引き伸ばされて」見える訳です。
「光の速さ」を持った見学者でなければ、解らない世界です。
同じ「時間」を過ごしているのに、見える風景がまるで違うのです。
現実にはあり得ない話ですが、これが科学的に証明されています。
「止まった地点」という場所である「特殊性」で見た時、「時間」は普通の人と「光速の人」では、明らかに「変化」を見る事ができます。
つまり、「時間」は、それを感じる、異なる人達「相対的」に見ると、それぞれに違った存在であるという事になります。
(光はそうではありませんでしょ。だから、「時間」は人によって相対的なんです。)
これが、アインシュタインの「特殊相対性理論」です。
詳しく知りたい方は、調べて見てください。(また、手抜きをします。)
私達が、誰でも平等に感じている「時間」ですが、これは「平等」ではありません。
「平等」に感じるのは、そのように「誰かが」言っているからでもありますし、時間と言う存在が「遅すぎる」から、感じないのです。
「光」になった存在から時間を見た時、それは「遅くみえる」事でしょう。
つまり、「時間」は「人」によって「キャパ」が違うと言っても良いのです。
さらに、「空間」の中に「時間」がありますが、「空間」は重力に引っ張られます。
すると、「空間」の中にある「時間」も影響されます。
だから、「時間」は私達が一般的に感じているような「普遍的な不動体」ではないのです。
「時間」という存在なのです。
その「時間」という存在は、これまで、いたる所で「時間は平等に誰にでもある」と言われて来ましたが、そうではありません。
そんな言い方は「詐欺(サギ)」です。
「時間」は相対的に、それを受ける人によって違いがあるのです。
だから、学校で勉強の速度が遅い人に対して「能力がない」なんて、言えないのです。
その方が持っている「時間」は、一般の方達と違うのです。
「時間」が相対的に違うと言う事を理解されますと、少し「人間」という存在が見えてくる気がします。
「遅い」や「早い」ではないのです。
それは、持っている「時間」の違いなのです。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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