心理の中にある「原型」について語りたいと思います。

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

「思想カテゴリー」にて投稿させて頂きます。

 

「原型」について、語りたいと思います。

 

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私はブログ内で、かなり「反神様的」な思考を綴っています。

ただ、それでも「神社」や「お寺」に足を運びますし、もちろん「手」も合わせます。

 

私は「禅」について少しだけ投稿していますが、そのように「空」を描いても、やはり「経典」などの「文字」に心を寄せてしまいます。

 

これは、私の根本の中に「神」という部類の「何か」があるのです。

 

この感覚は、間違いなく多くの方々の中に存在するはずです。

 

通常、こうした感覚を科学的に説明するなら「DNA」に「情報」が刻まれているという言い方をしますが、心理的には「原型」という言い方をします。

 

人間の「DNA」に記載されている情報と同じように、心理には太古の人々が共通に持っていた心理状態の「原型」が構造として存在しています。

 

「原型」があるために、一般的には「お祭り」などの神事に対して、自然と参加したり、喜怒哀楽を示すことが可能になっています。

 

また、多くの「スピリチュアル」に思いを寄せる方々も、心理に「原型」があるから、それを欲しがるのです。

 

この「心理」の中にある「原型」という存在は、太古の私達の祖先も持っていました。

 

それが如実に解るのが「神話」です。

 

他国の多くの神話には「龍」が現れます。この「龍」はおおよそ「退治」されます。

「退治」される「神話」が、「ゲルマン神話」の中にも、中国大陸の中にも、日本にも見て取れます。

 

これは、そうした「神話」がヨーロッパから中国へと、大陸を隔てて伝わったからストーリーが同じであると言う事ではないのです。

 

元々、人間は「心理」の中に「原型」という「人類共通の型」を持っており、ここでは「龍を退治する」という「モチーフ」が書き込まれているのです。

 

その為に、各国の神話の中に、同じような「龍退治」のストーリーが現れるのです。

 

 

全ての人間が時代を超えて、共通の「原型」を持っている証拠です。

 

だから、私は「ふと心」を休めた時に「経典」などを見かけますと、それを手に取りたい衝動に駆られます。

そして、その「経典」に触れる事で、何とも言えないエネルギーを感じ始めるのです。

 

さて、私が「スピリチュアル」や「極端な神ごと」や「過度な引き寄せの法則」などのを否定するのは、この「原型」に飲み込まれてしまうからです。

 

飲み込まれるとは、その存在が全てを包括してしまうという事です。

 

それは、間違ってもあり得ないことです。

 

つまり、そこに到達する人間に「覇気」は見当たらなくなります。

 

絶対に誤ってならない真理は、「真理という言葉」に執着する事ではなくて、それを操る「自己」を理解している事です。

 

その時に、「スピリチュアル」や「極端な神ごと」や「過度な引き寄せの法則」は、ただ「私達」の「道具」としての存在としてある事が解ります。

 

「道具」とは「思考」の事です。

 

物事に執着して、そこを「真理」としての「終着点」を定めますと、まず「逃れる」という事が出来なくなってきます。

 

何故か。

 

それは「自己」を封鎖して「声」を上げれない状態にするからです。

それが「執着」の正体です。

だから過度な「スピリチュアル」や「極端な神ごと」や「過度な引き寄せの法則」は危険なのです。

 

この「自己の声」が「上がる」ことを聞き届けられない状態が、つまり悪です。

 

私たちの世界に現れる全ての現象は奇跡のように感じますし、英知に溢れる物ばかりです。

ただし、それを感じ得ることが出来るのは、太古より変わらない「原型」を心理に持って生活してるからです。

 

これが人類に共通としてある事。

 

だから今日も「祈り」を捧げる人たちは消えることがありません。

 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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