「悲観主義は感情で、楽観主義は意志の力のよる」

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「アラン思想カテゴリー」にて投稿したいと思います。

 

あまりにも久しぶりな「アラン思想カテゴリー」投稿です。

 

たまたま「NHK」で放送されたアランの「幸福論」テキストが手元にあり、これを見てみました。

 

このテキストに紹介されている言葉が「悲観主義は感情で、楽観主義は意志の力のよる」です。

 

なぜ、悲観主義が「感情」であるかです。

 

 

今日は、とっても大切な「メインディッシュ」をいくつか述べます。

ほぼ、ほぼです。

 

ほとんどの人達は「何かを得る」という状態に対しては、「受け身」として「得よう」とします。

 

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ほとんどの方が、「何か」を得よとする時には、それを「欲しがる」行動をします。

そして、ほとんどは「もらう」という行為を「受け身」的のようにしています。

 

ただ、ここには「悲観的」な雰囲気が漂っています。

この「受け身的」は、やがて様々な妄想を描き出すようになります。

 

・給料が安い、どうしよう。

・家族の雰囲気が悪い。最悪だ。

・社会の状態が不安定だ。

 

など、とにかく問題ばかりが立ちふさがり始めます。

これを「試練だ」とか「努力で解決」という風潮もあります。

 

ただ、そもそも「何かを得る」という態度に問題があるのです。

何かを「得ようと」するのであれば、何かを「投資」しておかねばなりません。

 

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ここでは「サイダー」を飲みたいと思った時、「ストロー」で吸う必要があります。

この「吸う」が、自分が行動する「投資」です。

 

この「投資」を行わないと、「サイダー」が飲めません。

 

「何かを得る」という時には、必ず「行動」が必要になるからです。

 

これを「アラン」は次のように説明しています。

 

「不幸になったり不満を覚えたりするのは簡単だ。ただじっと座っていればいいのだ。」

 

さらに続けます。

 

「気分にまかせて生きている人は皆、悲しみにとらわれている。いや、それだけではすまない。やがていらだち、怒り出す。」

 

 

これは「サイダー」はあるが「吸う」事をしないから、「いらだち」、「怒り出す」のです。

「不幸」は、こうした「自己投資」という行動を行わない為に、悲観的な感情が自然的に発生するのです。

 

「サイダー」を「吸う」という事をすれば飲めるのですが、それを行えないのです。

 

  その理由は、ほとんどの人達は「何かを得る」という状態に対しては、「受け身」として「得よう」とする事を当たり前のように教えられてきたからです。

まさか、世の中が「自己投資」で利益を得れるなんて、知らないからです。

いや、本来はそうなのです。

ケチャップを使おうとしたら、「押す力」で利益が得られるのです。 

 

ところが、こうした知識が世の中に蔓延していない為、「悲劇」を発動させる体制として、妄想が現実化するかのごとく、悲劇が止まないのです。

 

 

さらに付け加えますと、「分け与える事」を教えられてきました。

 

「分け与える」のではなく、「与える」動作が必要なのです。

「分け与え」も「待つ」という「悲観的」な行為なのです。

 

 

「ケチャップ」を使おうとする時、必ず「ボトル」を押すはずです。

「中身」を出そうとするのであれば、「押す」という動作が必要なのです。

 

「仲良く分け与えられる」事を待つという姿勢では、「悲劇」を誘発します。

そこには「停止」という行為が優先であり、「自己投資」という行動がないからです。

 

世の中が規律よく、誰もが「待ち」の姿勢で「仲良く分け与えられる」という姿勢は、「悲劇的」なのです。

 

「空虚な物語」も現実化して見えてします。

現実の「幸福」に雲がかかり見えにくくなるのです。

 

 

逆に「サイダー」を飲むために「ストロー」を使う事を問題にしない人間は「幸福」になれます。

 

「幸福」である為に、物事を「楽観的」に捉えます

 

「楽観主義者」とは、「サイダー」を飲むために「ストロー」を使う事を、問題にしない人達なのです。

 

だから、とにかく身の周りの事が「豊かである」という認識に立ちます。

「悲観的」になる事が出来ないのです。

そうした行動をとれば「サイダー」が飲めないからです。

 

「サイダー」が自動的に体の中に入る事を哲学的にふける「悲観論者」では、「サイダー」を手に入れる事ができないのです。

永遠と、妄想にふけるしか道がないのです。

そこに正義はないのです。

 

だから人間は本来、自らの行動で「幸福」を得る事ができるのです。

それを怠った場合、「悲観論者」として椅子に座っているだけなのです。

 

ただ、その「幸福」も大変な努力が必要である訳ではありません。

だから「楽観主義者」である必要性を「アラン」は説くのです。

 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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