マルクスの「唯物論」を勝手に簡単で説明してみます。

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「思想カテゴリー」にて投稿したいと思います。

マルクスが思い描く「唯物論」について、私的に簡単ですが投稿させて頂きます。

 

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photo credit: Karl Heinrich Marx (5 May 1818 – 14 March 1883). Osho on Karl Marx and Communism. via photopin (license)

   

マルクスが生きた19世紀という時代は「資本主義」が大きくなり、貧富の差が問題になりました。

この「資本主義」の傾向は、どこからやってきたのでしょうか。

 

ヨーロッパでも日本でも、10世紀前ぐらいは国家の統治を「王様」が行っていました。

「王様」と「家臣」の体制です。

 

その後、「ギルド」という商人組織が出来ました。

そして、そんな環境で「ギルド」には属さない「手工業」のような方々が、細々と生産を上げて行きました。

 

ところが18世紀から「産業革命」が起こり、機械化によって「手工業」などが「量産可能」になり、「お金」が大幅に儲かる時代になりました。

そして、「雇う側」と「雇われる側」が生まれました。

 

「資本家」と「労働者」の体制です。

 

「雇う側」は「資金」を沢山持っています。それは「雇われる側」に稼いだ賃金を全てあげる訳ではないからです。

マルクスは、これを「剰余価値」と言っています。

 

この剰余価値は、どんどん「資本家」の手の中に溜って行きます。

「資本家」は利益を上げる為に「労働者」の賃金を安くしたり、長時間の労働を行わせて「剰余価値」を高めてゆきます。

 

「労働者」は「生産価値」を生む存在です。そこで「資本家」は、常に安い労働力を手に入れようとします。

こうして、「資本家」と「労働者」の間に「格差」が生まれてしまいます。

 

 

マルクスは、こうした状況を歴史的に観察しました。

そこで、ある答えにたどり着きます。

 

「世の中、物だ、お金だ、経済だ!」

 

これまで、歴史を考察する際には、「英雄」の人生から「観念的」に探りを入れたり、自分達の人生の教訓として、やはり「観念的」に捉えてきました。

 

しかし、世の中は「観念的」な事で、世界が回っているのではないのです。

 

 

(参考投稿 「ヘーゲル 観念の弁証法 簡単に説明します。 」)

http://mahakara.blogspot.jp/2015/05/blog-post_24.html

 

 

マルクスは「観念論」を、こんな風に言っています。

「観念的な物とは人間の頭脳の中に移植され、翻訳された物質化されたものにほかならない」

 

今でも、世の中に不平不満を訴え、行動する多くの方々は「観念論」を基準になさっているように見受けます。

「ヘーゲル」的な世界感を常識として、世の中を変えようとしている気がします。

 

しかし、マルクスは「それではダメ!」と言っているのです。

 

何故なら、世の中は「観念論」ではなく、その逆の「唯物論」で構成されているからです。

「観念」より先に、現実には「物」が広がっています。

 

しかし、多くの方々は「物」より先に「言葉」を持ち出して「観念的」に解釈して行動してしまいます。

それを続けている限り、世の中の本質が見えてきません。

 

マルクスが言う、唯物の世の中の本質は「お金」の流れである経済です。

 

現実を見つめると、「お金」という「経済」が始めにあるのです。

歴史は「経済」の流れであり、「経済」の弁証法によって変わりゆくと考えています。

 

(参考投稿 「弁証法の意味を説明しようと思います。」 )

http://mahakara.blogspot.jp/2015/05/blog-post_22.html

 

 

私が言えるような事でありませんが、「お金持ち」の思考は、この「唯物論」が頭脳を占めていると感じています。

 

この感覚は大切な事です。現在の「資本主義」の根底であるからです。

「資本」を持つ意義とは何であるのか、それは社会が「資本社会」であるからです。

 

マーケットの動向を気にしない方々は多いと思います。使われている用語もよく解りません。

しかし、このマーケットが「資本社会」なのです。

 

マルクスの思想に立ちますと、「資本社会」であるのなら、その本質に思考を巡らせて携わっていないと、安易な「雇われる側」としての「格差」の中に落ちいってしまうと言われる気がしています。

 

マルクス自身は、当時の「格差」を無くすために奔走した人物です。

世の中の本質は「観念」ではなくて、「物」である「唯物」である事。

 

その「唯物」の本質は「経済」であり、歴史もまた、「経済」の推移に他ならない。

だとすれば、「経済」を理解していないと貧しい所に陥ってしまう。

理由は、現在が「資本社会」であるからです。

 

人間はそうした状況に追い込まれても、「観念」で問題を解決しようとする。

 

しかし、世の中の本質は「唯物」であり「観念」ではないので、「資本社会」では相手にならず、格差が生まれ始める。

 

まず、「資本社会」は「お金」であるのなら、これを是正する方法を模索すれば良い。

 

ここまでが、マルクス的な「唯物論」です。

かなり歪曲してしまいましたが、大切な事は「資本社会」で生活しているので「お金」を考えて生活する事が第一であると言う事です。

 

追記しますと、別に「深く」経済を理解する必要は無いと思います。

例えば「ディーラー」と呼ばれる方々が、何故か朝の満員電車に乗っています。

 

つまり、「ディーラー」という名称があっても、稼げないのです。

経済に深くとも、「富」を得られると言う事ではありません。

いや、実は経済なんて誰も解らないのかもしれません。

 

しかし、私達が生活している世界が「資本社会」である以上は、この「経済」の流れに思考を巡らせて生活する必要があります。

 

私がマルクスの「唯物論」から感じる世界観は、こんな感じです。

 

さて、「唯物史観」については話しませんでしたので、機会があれば投稿したいと思います。 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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