パラダイムという存在



「パラダイム」という言葉。この言葉は色々な所で使われているでしょう。「カテゴリー」とも訳せると思います。

私が紹介します「パラダイム」というのはトマス・クーンが持った思想の中の「パラダイム」です。

どんな思想かと言いますと、こんな感じです。


  
「おいしいスイカ」が古くから食されてきました。
ところが、この文化に対してとんでもない変化が発生しました。なんと「種無しスイカ」が誕生したのです。





この「おいしい種無しスイカ」は、あの厄介な「種」がないのです。瞬く間に、このスイカは文化の中に入り込んでゆきました。そして、いつの間にか、市場から「おいしいスイカ」が消えてしまい、「おいしい種無しスイカ」ばかり売られるようになりました。人々は利用価値の高い存在へシフトしてしまったのです。



トマス・クーンの著書「科学革命の構造」の中では、従来の科学的方法(人々が普通のように使っていたもの)から、新しい科学的方法へシフトする文化構造のような存在を「パラダイム」と言っていました。ニュートンパラダイムからアインシュタインパラダイムへと理論が移行する過程です。

いわゆる、スイカが継続的に進化をたどって生まれた産物が「種無しスイカ」ではなく、段階的に「ポン」と誕生するイメージです。付け加えれば、今までのスイカでは素早く食べる事に限界があった為、めんどくさくない理論(ここでは種無しスイカ)が生まれたと言えば良いでしょうか。

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ここからは、私のパラダイム考察です。

あくまで、私のパラダイム考察です。


1995年に「windows95」が世に出ますと、急激に「パソコン」が売れ始めました。「メール」という文化が生まれて、個人が情報を発信する「ホームページ」が生まれました。

社内では「オフコン」と呼ばれていた物が「パソコン」の一部のソフトという扱いになりました。

文章を手書きする文化から、キーボードを叩く文化が広がりました。 

しかし、普通に考えると、誰でも「パソコン」を扱えたのは何故でしょうか?それは新しい「道具」なので多少の訓練は必要です。

「ニュートン理論」から「アインシュタイン理論」へと「パラダイム」が途端に変化したとして、人間はその道具を扱えてしまうのです。


これは非常に大切な所です。 

人間は、例えば学校や会社で「劣等生扱い」されていた人でさえ、パソコンが操作できたのです。子供からお年寄りまで使う事ができたのです。

「古いパラダイム」から「新しいパラダイム」に変化が発生する理由は、その「新しいパラダイム」の方がいままで使用していた道具よりも優れているからです。


優れているにも関わらず、誰でも使用できる。



 常に文化の変化は私たちに待っています。しかし、その土台は誰でも使用できる道具であるという事です。

 「古いパラダイム」が悪いと言う事ではありません。故に、例え古い道具を扱っている方々がおられても、決してバカにはできません。今、生活している道具の土台と構成は、「新しいパラダイム」でも同様なのです。

その理由は、今現在において私たちが生活している文化と、それ以前に生活していた方々の文化レベルは変わる所がないのです。

私たちの生活の「パラダイム」は常に変化して現われてきます。

しかし、恐怖する所はないし臆病になる必要もない。差別する必要もないし、見捨てる必要もない。


パラダイムの変化を感じた時は、素直に見つめましょう。

そして、それを受け入れる準備をしておきましょう。


何故なら、それが誰にでも扱える世界だからです。

そして、準備された「生きる道」であると思うからです。



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