集団が知識で固まってはいけない


最近はこの投稿のような集団はあまり見かけませんでした。

(それくらい、文化が衰弱していた為であろうか。)

私は生活の多くにおいては孤独です。それは、「知識」においてもです。

私は「知識」を溜め込んで、その知識の思うままに動かされる事を嫌います。

そんな私ですから、「知識」に固められて、しかもそれが集団化して「そうですよね。そうですよね。」と語り合っている集団が大嫌いです。

「ガラクタ捨てれば運気が上がる」のようなタイトルの本があったと思います。これはタイトルそのままで、凝り固まった物があると運気を妨げるのです。その為に、新しい運気を呼び込めないとする本だったと思います。

私が知識で凝り固まった人を確認する点は「笑顔」がこわばっている所です。そして、行動が限定されてくる所です。つまり、心がこわばっているのです。

そのような人達の近くにいれば、「気」のお話を思い出して頂ければわかりますが、別の他人へ伝染してしまうのです。故に、気分が悪くなります。要するに、「何だ、こいつら。ブツクサとウルサイな。」という心境です。

「可愛いなぁ」とか「がんばってるな」などでしたら良いのです。清々しいのです。

明らかに、心をつかまれるような息苦しい他人にあった事は誰でもあるはずです。

ひとつの知識という道具にこだわり過ぎて、周囲にある「呼吸」を乱すのです。そんな方々が共通にくっ付き、集団となれば周囲への「呼吸侵害」はさらに広がりを作ります。

この種の方々の中には、特に、とてつもない「嫉妬心」や「欲」を心の怪我や弱さから発生させた為に、その背後にはただならぬ因縁を持ち歩いている人もいます。無礼な事も特徴です。背筋が曲がっているでしょう。(私は単に「虫」がついてると他人に言います。)

こうなると、集団から逆に排除されると思いますが。


私は、些細な自分の経験から、「意識」というものは誰でも多重にあると思っています。これは私的な見方で、いずれ投稿したいと思っています。

人は、知識に頼る以前に自分に頼っている者です。

自分が必要とする自分を作り、その彼が知識を探る。

自分が必要とする人格を作り、周囲の呼吸と合わせる。


私はブログにて、言葉の大切さと思想をこの世界に現してくれた事に感謝し、それを扱える事に感謝して記述を残しています。

その感謝の根源にある物は「笑顔」です。それは安心を感じられる場所です。決して、窮屈な場所であってはなりません。

せっかく生きているのですから、窮屈はもったいないです。

私の周囲、集団に凝り固まった自分が存在しないように気を配っています。みんなが、自由自在に心を安全の状態に保てたら良いと思っています。

つたない文章ですが、目をとうして頂き有難うございました。



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