ジャミロクワイ 「Too Young to Die」


Jamiroquai」(ジャミロクワイ)の曲はセンセーショナルだった。

「J」がカッコいいと言うだけでなく、音楽は強烈だった。

そして世界に炸裂した。

 

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photo credit: VibeRide Jamiroquai | VibeRide via photopin (license)

 

さて、「東芝」が分社化されるというニュースを聞いた。

従業員の2万人が不安定な状態にあるようだ。

これは、少し前の出来事であるが、どうなったのであろうか。

 

その作業者の内、コメントがネットに掲載されていた。

「東芝に勤めれば、将来は安泰だと思った。ところが、株価は下がり始めた。アメリカの原発問題だ。これのおかげで「半導体部門」が切り売りされる状態だ。」

「両親は言う。お前の会社は大丈夫なのか。」

 

このような事が書かれていた。

 

私自信は「ネガティブフリーカー」である部分があるが、これは最悪の異常事態だ。

 

論点は、コメントをした方の状態だ。

この方は「東芝」に入社するまでの生き方、そこに「ドロップアウト」はなかった。

そして最大の恐怖は、両親の「お前の会社は大丈夫なのか」の一言だ。


私は、このコメントを見たときに、信じがたい震えを覚えた。


誰もが「美しい」と思える「衣服」を着飾りたいと願う。

ロラン・バルトの言うところの「衣服」、つまり「モード」の支配する社会である。

 

私が「彼」であるなら、今まで見てきた風景は何だったのであろう。

そして「生きる」という世界、受け入れてきた、その「路線」は何だったのだろう。

ここに冗談はない。


「彼」が得てきた限りない「笑顔」は、限りない「着飾った笑顔」であった可能性が高い。

 

彼が着飾ってきた「衣服」は、本当に「ちりとり」で「ゴミ」をはき取るように、取り去るほどの状況にあるのだ。

 

人は「知識」を欲しがる。意識を欲しがる。多少の権威も欲しい。それは生きる為だ。

しかし、「実践」のない「知識」と「意識」には、無限に「ツケ」が付きまとう。

 

その「彼」に「実践」はあったのだろうか。

両親の言葉を見たとき、実践はなかっただろう。

「彼」はただ、教えられた「彼」の全体の中で生きる事が「衣服」であった。

そして、おそらく「いまだに」それを誇る自身があるはずだ。

 

ただ、その「モード」以外を、「彼」は純粋に受け入れる時に近づいている。

 

 

 

 

ジャミロクワイ 「Too Young to Die」の「歌詞」とは、今回のブログ内容はかけ離れているかもしれない。

ただ、冗談ぬきで、「Too Young to Die」なのである。

 

発生している事態に「叫ぶ」ことも知らない。

いや、解るはずがない。

「彼」は「世界」にいなかったのだ。

ただ、実体としての「彼」には「生命」があり、「生死」が存在している。

じっとしていれば「死」がやってくる。

 

こちらのサイトに素晴らしい「訳」が掲載されています。

http://rocksblog.seesaa.net/article/391495562.html

 

今、「Too Young to Die」は発生し続けている。

実際にあふれる自殺という出来事。

追い込まれてゆくのだ。


追い込む者は、自分達が正しいと思い込んでいる。

ただ、彼らも「彼」と同じように「世界」に存在していないのだ。


「世界」にある「実践」を経験していないから、「空虚」を実践とする。

だから、「空虚」の犠牲者は「自殺」に走ったり「精神障害」をきたし始める。


この流れを変える方法はある。

それは「知恵」だ。

 

「志」を抱ける本分を見出すこと。

そして「慢心」することなく、世界に挑むこと。

知識は抱え込むものではなく、実践の先に「道具」として散らばっているもの。

 

これは重要な事だ。

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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