私が最近思う「形而上学」的な認識感

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「哲学カテゴリー」にて投稿したいと思います。

その内容は「形而上学」についてです。

私自身、思考を整理したい気持ちもありまして、形而上学について少しまとめたいと思いました。

 

そんな形而上学と言えば、その始まりはギリシア哲学に見られます。

代表的な人物に「アリストテレス」がいました。

このブログでは取り上げてはいませんが、簡単に説明しますと、プラトンが行った哲学に対して、これをもう少し明確にしたようなスタイルです。

 

プラトンが「イデア論」を行いましたが、アリストテレスは「形」があって質量がない世界観の構築を行います。


これはどこかの本で読んだ例えです。

 

慣れ親しんだ「靴」というのは、あなたの体型に合わせるかのようにフィットしてゆきます。

あなたが「靴」を履いていない時も、「靴」はあなたの体型を留めています。

あなたにあった「靴」になっているからです。

しかし、その「靴」に表れる見えない、あなたの「形」に質量はあるでしょうか。


これが、「質量」のない「形」です。


では、「質量」のない「形」とは論理的に説明できるのでしょうか。


この問いに対して、「ある」とするのが形而上学でした。


プラトンからアリストテレスへ、そしてヨーロッパへ向けて、この形而上学は波及してゆくのです。


脱線しますが、論理的に当てはめて、無理である存在がありました。

それが「神」です。

「神」とは論理的に論を起こす事が出来ません。

何故なら、「神」という対象物が特定出来ないからです。

故に、「神」は現前として立脚する立場を構築致しました。

 

 

この形而上学的な発想の重要点とは、「真理は絶対にある」というスタンスを確定した事です。

つまり、プラトンやアリストテレス的な形而上学という世界においても、真理は確定しているものとして表わされました。

ヨーロッパで発生する様々な哲学において、確実に真理なる存在を確定して知識を巡らせて行くのです。

しかし、こうした思考の欠点は、「般若心経」のように答えを「空」のような場所に設定する事が無い事です。


確実な真理を求めるため、不確実な真理を求めるハズがありませんでした。

 

 

そうした背景に、私達の現象に起こる現実を明確にしようとする人物である、「フッサール」が疑問を持ちました。


それは「近代合理主義」に対する批判でした。


この「近代合理主義」は、それ自体の真理が合っているという方向から進みます。

しかし、合っているという確定は、何故に可能なのであろうかと考えます。

つまるところ、「近代合理主義」が合っていると見る「見解」が誤っていては、物事は、実は不確実であるとフッサールは見るのです。

 

そして、フッサールは、「超越論的観念論」を掲げます。

 

これはブログでも投稿しましたが、簡単に言いますと、確実な現実というのは、私達の意識に入り込んで、現実の世界で誰にでも伝えやすく、壊れにくい「言葉」として現わす行為であるとする事です。


そうしますと、形而上学のように真理を確定する行為は「野蛮」な行為といいましょうか、実は確実な知識の探求にはならない事を、フッサールは示しました。

 

真理の探究は、「言語」に向けられ始めます。

 

ソシュールが「言語学」を確立し、「言語学」から社会の構造を把握しよとする「構造主義」が生まれました。

「構造主義」についてはマチマチにブログ内に投稿されています。

例えば「ロラン・バルト」や「ラカン」です。

 

しかしながら、こうした構造主義が20世紀の終わりに近づくと同時に衰退してゆきます。

いや、こんな事を言ってはいけませんが、つまるところ、「形而上学」という発想と似通っているのです。

フッサールが確かな「言語」を提示して真理を導く定義を行いましたが、そもそも、フッサールの「定義」が過っていると言われたらお終いです。

 


形而上学に見られた「完全なる世界の真理」という世界が、同じように社会の構築過程にも見られました。

つまり、「完全なる真理」が過っているという定義を示されていませんでした。

 

このように言いますと、ダメな問いに思われますが、そうではありません。


答えという物が、この世の中の構造が把握されているとしたら、未来の出来事が把握できるなら、それは「ゴール」を含んだ世界になります。


「ゴール」の先は終焉しかありまえん。

フランシス・フクヤマ的に言います「歴史の終わり」になります。


人類が終焉していないのですから、いまだ「ゴール」ではありません。


哲学者アランは、私達の周りに際限なく記号が巡っていて、営みを行っていると言っていました。

きっと、そのような雰囲気なのです。

故に、舞台芸術のように主演者も観客も一体の在りようとして絶え間なく存在しているのでしょう。


それは常に、際限なく記号が巡り、我々の生活は営みが行われているのです。

その絶え間ない生活の中に、はたして構造を捉えて完結する事は出来るのでしょうか。

もし、科学的な判断として心理学があり、罪の意識はないとする犯罪者を解放する事は正しい事でしょうか。

 

事実があり、結果がある世界です。

つまり、包括的な真理には、どこか矛盾を見るんです。

 

しかし、それが一度でも真実扱いされると、人はそこに言葉を重ねて真理を明確にしようとします。

今回に私が投稿したい内容は、こうした事柄に真実はなく、真理は形而上学的な発想点であるかぎり、神を追うような作業にほかならないと言う事です。


私が「オルタナティブ・テクノロジー」という投稿で、原発の問題に触れましたが、使う側も、停止したい側も、言っている事が明確に感じ得ないのです。

ただ、終焉のない記号が巡っている気がするのです。

ただ、舞台で各々の役割を果たしているだけに見えるのです。

 

この辺は、「デリダ」的に説明すると解りやすいかもしれません。

この投稿の内容が「デリダ」的です。

「デリダ」についても、いずれ投稿したいと思っています。

 

この世で明確にできると論理する事は幻想であります。

しかし、形而上学はその幻想の中にも真実をみました。

すると、私達が接する全てに真実がある事になります。

つまり、そのような完成された思考は、人間を奴隷のように思考の鎖に繋げてしまいます。

そして現される世界は、フッサール的に言えば、不完全な存在なのです。

そこにある世界の文化体の一部である人間は、その構造にまったく気が付かずに、自己主張しても、それ自体が不完全であるのです。

つまり、この認識上では、何を行動しても発言しても、真実ではないのです。

 

人が良く生きる事が、一番の良き事です。

しかるに、形而上学のような絶対的な真理に陥る事を、私は恐怖します。

故に、徐々に解りやすく解き明かしてゆきたい項目でもあります。

 


今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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