私が語れる 「道」(タオ)

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「哲学カテゴリー」にて投稿したいと思います。

 

「神様カテゴリー」で「雷声普化天尊」について投稿した事があるのですが、この道教の「道」の部分である「タオ」という思想についても、どこかで投稿したい内容でした。

 

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photo credit: Alan A. Lew via photopin cc

 

先に「タオ」を極めれば、何が可能か話します。

例えば、あなたが「山」が好きで、老後は仙人にでもなったかのような生活を望んだとします。そして、10年の歳月が流れました。

ある時、あなたの知人が「山」に登ってあなたに合いに来ました。

知人が町の様子を語ります。しかし、あなたは逆に、このように答えるかもしれません。

「もしかして、あの場所にあった「パン屋」もそのまんまでしょう。食いしん坊がいたよな。変わっていないだろ。」

 

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photo credit: Kaptain Kobold via photopin cc

 

知人は「そのとうり」と答えるかもしれません。

タオの「道」とは、人の「心」を示します。そして、「心」に写る世界は、場所を離れていても、年月が経過しても、あなたの「心」には、何故か離れている場所の事が解るのです。つまり、仙人なのです。

 

タオとは「道」の事です。道とは心であると言いましたが、実は道とは通路の事です。

この世界のあらゆる現象は、原因があって結果が発生していますが、その道筋がタオであるのです。

私はブログの中で「カント」の哲学より「主観」と「客観」を解り易く投稿しました。

 

しかし、「主観」と「客観」という存在は、人間のみが認識を行う事ができる世界観です。タオの世界にはありません。

 

何故にないかと言うお話をしましょう。

今から20年前に「阪神大震災」がありました。私は当時の日の事を覚えております。

これは虫の知らせでしょう。実を言いますと、地震が発生するその夜は寝付けませんでした。その理由は、床下、つまり地面から気持の悪いエネルギーがどろどろ流れているように感じました。

東日本大震災の時には感じませんでしたが、本当に気味が悪かったのです。

そして朝起きると、テレビで大地震が発生した事が解りました。

その当時、私はアルバイトをしておりました。

その日の天気は冷たく、しかし本当に空気の澄んだ、すっきりとした青空でした。

しかしそうした中で、震災の場所へ物資を運ぼうとする方々であふれました。

もう、布団でも何でも発送しようとしますが、到着するはずがないのです。

その事を説明しても、とにかく発送してくれとの事でした。

テレビを付けますと、どこかで火事が起こっていました。そしてその火事は時間の経過と共に大きく広がってゆきました。火の海がテレビで流れました。

こうした災害状況を知ることは、今まではありませんでした。

救助隊が駆けつけますが、生き埋めで助けを求めている方がいらしても、救助隊は時間の関係で切り上げていました。それが、隣で助けを求めていてもでした。残念ですが、火に飲まれてしまいました。

この時の事をよく覚えております。天気も、人の動きも。仮設住宅が生まれた事も。急激に復興した事も。被災した方で、関東で仕事をしていた方にも話をしました。家は全壊であった話を聞きました。

 

この時、本来であれば、その大地震にあった方でなければ、本当の現実は解らないのです。しかし、テレビを付けて見た方々は、同じように惨劇を共有していました。同じ痛みを感じるのです。

これが、「タオ」なのです。

発生している現実を、自分の世界と同一化するのです。本来は、「主観」と「客観」という人間の特質から、このような事は起こりえません。

理由は、主観を持つ個人が、客観の他人の苦しみなど、理解できるはずがないからです。しかし、主観と客観を同一視しているのです。

「タオ」と言う、自然の流れの世界にいるのです。

 

冬空では、星が良く見えます。そんな星は重力によって動かされています。これは自然の法則です。全ての現象は、自然の法則の中にあります。

人間が頭で思考を巡らせる事は「主観」ですが、その主観を放棄して、自然という「客体」に埋没する現象は、自然の法則の中にあるのです。

自然の中に埋没するとは、例え「主観」を取り除いても、客観的に展開している世界の情勢は、理解できるのです。

それは、世界の流れがタオの中にあるからです。

 

こうしたタオの世界の中で、人間のみが自我をもって生活を行います。

すると、タオの世界に反します。

そこで、「道教」となるのです。

道教に限らず、道徳と言うものは、タオの流れに問題なく対応させる為のものです。

(たぶん)

 

私が以前に投稿しました「仁義礼智信」も、本来の「タオ」という自然の流れの中に人間が対応する為に必要なのです。

「タオ」の流れを理解できれば、宇宙だって知りえると言う事です。

仙人になって、下界の状況も把握できる。

 

こうした事は言いすぎですが、自然界の法則のようなものが、この世にはあります。

それは容易には解りません。

しかし、先人が「タオ」として表現して、実際に私たちも「タオ」の中に入って行動します。

私達の心に「タオ」があります。心に描かれる自然の「道」が「タオ」です。

神道と結びつくかもしれませんが、自然を理解して保護しようとするのではなく、自然と一致して営みを行う活動の中に「タオ」があるのです。

「主観」と「客観」を超えた「心」に「タオ」があるのです。

 

本日は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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