フーコーの言葉 「狂気」

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「フーコー」について投稿したいと思います。

とは言っても、実はそれほど詳しくは知りません。

フランスの哲学者です。

 

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photo credit: biphop via photopin cc

 

どうして、この「フーコー」を投稿しようかと思ったかと言いますと、

現代が「狂気」に満ちあふれた状態に在りつつあると思ったからです。

つまり、世の中の「コード」という一般状態が、まるでジャズのように

緊張したテンションコードの続いた状態の中に、現れている気がするのです。

そうした環境では、「理性」というものが、「狂気」と対比もできない、

狂った環境として在りつつあると感じています。

 

さて、フーコーの「狂気」とは何かです。 

「狂気」と言ったら、普通は「精神的な病」を持った人の事です。

ヨーロッパにおいて、近代化してゆく社会の中で、社会に属することの出来ない、

排除すべき存在が出てきます。それが「狂気」です。

一般的な社会生活者とは、その一員である「理性」を持っています。

しかし、社会に対応できない「非理性」を備えた人物を、近代ヨーロッパ社会は

「隔離」という、施設に入れる等の処置を取ります。

こうして社会を確立していたのでしょう。

この歴史的な説明を、フーコーは「狂気」という言葉を用いて説明しています。

ただ、例えば「ニーチェ」の説明を見てもらうと解るのですが、「理性」を

追い求める社会から、人間の「実存」を追い求める時代へとシフトしてゆきます。

すると、「狂気」も人間の一部であるのですから、持ち合わせて当然ですよね、

と言う風に変わります。

フーコーは、そんな流れから「近代ヨーロッパ」の「狂気」の排除された歴史を批判しているのです。

 

ここからは、私の思う今を書き綴ります。

まずですが、「フランシス・フクヤマ」さんという方が「歴史の終わり」という著書を書いています。

確かですが、様々な人間の制度や思想がもはや進歩しない?ような事が書いてあった気がします。

私がその現代を通じて、人間に感じる態度があります。

それは、「狂気」なのです。

明らかに、他人から拒絶されるような振る舞いを当然とする「狂気」。

言われている事が、本当に理解してもすぐに忘れてしまう、注意力の無さ過ぎる

沈黙の「狂気」。

常に他者を見下して、自分を優位に考える「狂気」。

口がうまく、常に他者から利益を奪う「狂気」。

常に他者を傷つける「狂気」。

「狂気」と「狂気」が普通の社会に上がりこみ、平然と一般的な態度へと変化している「狂気の環境」。

 

それは大昔、エジプトで奴隷階級に「キリスト教」が広まりました。奴隷ですから、教養のない人達が多かった事でしょう。

あっと言う間に「キリスト教」が広まり、当時の王様は虐殺等の処置を取り、これを食い止めようとします。国として、統制が取れなくなってしまいます。

 

当時の奴隷は、「市民権」を持てませんでした。

同じように、韓国を代表に、会社がいつでも首を切れる「派遣社員」が広がりを

見せます。正社員(当時で言う市民権)ではありません。そして、会社の重要な常務にはついていない為、経験をつめずに「教養」が持てません。

 

例え、ある外食店で労働時間500時間働いた、2週間に2時間だけ家に帰った等の話がニュースで伝えられても、この「歴史の終わり」を起こした「狂気」の時代にあっては、公然と発生してしまうのです。

 

「狂気」に対峙する「理性」が、同等の立場で社会の土俵に上がっているので、

「狂気」だけを閉じ込める事が出来ないのです。

 

「狂気」の厄介な所は、「狂気」を呼ぶという事です。

そして、その振る舞いが「当然」へと変化してしまう。

これを批判する物は、逆に「狂気」と見られてしまう。

 

私は、どのように生きれるのだろうかと思っています。

私が、「神様」カテゴリーを作ったり、実際に参拝しているのも、

人間というものを維持する事が、本当の目的です。

 

不思議な事ですが、何故か電車内で年配の方「おばあさん」が多いかな?

私の近くにいる事が多いです。

もちろん席を譲りますが、そうゆう事ではない気が最近します。

 

年配の方でなくても、白髪の目立つ年齢になった、孤独な自分なのに

人がわざわざ寄ってくる事があります。

もちろん、言葉は交わしません。知らない人ですから。

 

きっと、毎週1回はどっかの神社に参拝している自分の心や気に変化が

起こっていて、私ではなく、そうした信仰心(いや、私の場合はちと違うのですが)

見えない「気」に、引き付けられているのかもしれません。

 

私が今、願っているのは「心の平安」なのです。

 

「狂気」は誰もが持っていて使用可能な道具です。

通常は「理性」が抑えていますが、社会が使用を可能にしているなら、安易にその道具を使い始めます。それは学校の先生であったり、生徒であったり、会社の上役であったり、様々です。

 

私が神社へ赴くのは、その場所を守り続けている氏子の方々にも感謝していますが、古来より変わらぬ気配を、日本の気配が生き続けられているからです。

私は神様に感謝しますが、その歴史や時間に感謝します。

そして、今は、ただ「心の平安」を望み、進んでいたいのです。

「心の平安」の上には、季節がめぐり、すごし易い季節もあれば寒い季節もあるでしょう。決して楽な生き方は続きません。

だからと言って、「心の平安」の奥底にある「狂気」を用いて、まるで地下から「石油」を取るかのごとく、「心の平安」を汚したくはありません。

「狂気」が続くと、人間が人間でなくなります。

私は、もうそんな環境も時代も周囲も、嫌なのです。

 

明らかに、20年前と人間が変わって見えます。

それで良しとするなら結構ですが、そこには「笑顔」はありません。

人間の歴史は4000年以上でしょうが、私はその時代が生んで育んだ「良心」に触れていたいのです。

「狂気」はあっけなく、そんな尊さも排除するでしょう。

 

フーコーの説明とはかなりかけ離れましたが、せめてこのブログを見ていただいた方には伝えておきたい想いでした。

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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