アランの言葉「シーニュ」


こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回は、アランの「シーニュ」について投稿したいと思います。

「シーニュ」といえばソシュールですが、私が最初に出会った「シーニュ」はアランでした。 
アラン芸術論からの抜粋です。




「言語にはひたすらそれ自体を対象とする部分があり、言語が思考の全部てをしめてしまう段階がある。理解するとは単にコミュニケ-ションが成り立っていることを知るにすぎず、それ以上を求めずに模倣することなのである。模倣し、かつ自分が模倣されていることを知ることである。」





そしてアランはここでさらに「しるし」を用いて説明します。




つまり、この模倣が純粋な最初の「しるし」なのである。それ自体意味がなく、出ていって帰ってきて交換によって確認される。これがおそらく社会の絆であり、社会を成り立たせている物である。




さらに、このように展開します。



「しるし」というものが持続的な交換によって刻み付き、固定されると言うことである。これは身振りの特徴である。さらに子供は言語を学ぶとき、まず身振りを学ぶように言葉を学び、そこに飛び交う声という物はただ相手の言葉を、そして自分自身にも聞こえるようにしているという点において助かっているだけで、第一の目的は、「しるし」を発見することなのである。
 こうした「しるし」は次第に規則づけられ、そして何重にも重ねられて社会成員としての存在が生まれる。抽象的なこうした絶対言語は芸術の中に見られる物である。シャトルのような大聖堂、十字架、バビロニアの塔など、一つの絶対的なしるしである。


抜粋が長すぎるだろ!

そうなんですが、もはや私の言葉でうまく伝わらないと思い、勘弁してください。
すでに読んで頂ければわかるとうり、普通の「芸術論」とは思えません。

アランの基本概念は、前回(少し前に)3回にわたり投稿しました。

あれは「下地」です。

あの人間の基本姿勢の下、この世に展開しているのが、この「しるし」である「シーニュ」です。

さて、最近は「祭り」の季節です。

アランは「祭り」についてこんな風に語っています。


まず、祭りとは何なのか。ここでは全ての日常が違う。声も、態度も、服装も、つまりそれを告げるこれらの「しるし」によって成り立っている物である。祭りは、それ自体で充足する「しるし」を交換することである。


アランは、こうした絶対言語こそあらゆる言語の支えになっていると言います。




 祭りで大切なのは、互いに似通うと言う気楽な遊びで同類をたやすく知覚することである。この一致が祭りの中で美的な要素を持ち得る理由となりのである。群衆が群衆の目の前にあるという事がすでに「見せ物」を楽しむという考えになって現れている。


これが、人間が芸術を認識して楽しむ工程になっていきます。

アランは芸術論の中で、「舞踏」、「音楽」、「詩」、「衣服」、「建築」、「彫刻」、「絵画」、「デッサン」とそれぞれの項目に対して「シーニュ」をそえて展開しています。
結果を先に申しますと、人間の生活は芸術として展開されます。

人が生きる事、その過程は「シーニュ」が交換されて成り立っています。

その土台である人間の精神に「情動、情念、感動」があって、成り立っています。


私は、アラン芸術論を読んだ時、「特殊な思想だな」と思いました。この現代哲学に対して、「近代哲学」が合体したような本でした。

その為、「シーニュ」や「構造主義」といった言葉に、私は手を伸ばし始めました。
アランと言われると「道徳家」のイメージが強いですが、私には厳格な究極の客観主義者にしか思えません。その理由は、いずれ投稿しようと思います。

今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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