こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は「日記カテゴリー」にて投稿します。
私は、昔は良くアニメを見ていました。
おおよそ、マンガとアニメで思考が出来上がっていった気がしています。
それはそれで危険です。
第一、ボトムズファンですから。
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さて、このブログでは「知識を道具」として扱う事を大切にしています。
それは、人間が純粋に良く生きる為には、思考に支配されるよりも、思考を支配したほうが良いからです。
人生をコントロールして、自分自身の支配者になる事が出来るからです。
こんな事を書きますと、つい頭が狂っていると思われるかもしれませんが、これは今の私の純然たる気持です。
それが出来ていませんと「プロトカルチャー」を無視しすぎた狂気の世界が出来上がってゆきます。
「プロトカルチャー」は「超時空要塞マクロス」の中で語られた言葉です。
このアニメの敵は「ゼントラーディ」という巨人です。
宇宙から地球に「ゼントラーディ」という巨人の軍勢が襲ってくるアニメです。
やっつれば良いだろうと簡単に思えるアニメではありませんでした。
「リン・ミンメイ」の歌う「愛・おぼえていますか」に合わさって、強烈に文化文明の強さを象徴づけるアニメになっていました。
「ゼントラーディ」軍ですが、戦うことに対しては得意中の得意なのです。
だから、自らを巨大化して暴君のように生きてきました。
しかし、地球の文明に触れたとき、その動きが鈍るのです。
彼らは、地球の文明形態を「プロトカルチャー」と呼びました。
一応、アニメの中の話ですが、かつて「プロトカルチャー」と呼ばれる高度な文明があったそうです。
しかし、戦争しか理解できない巨人化した軍勢どうしの争いの中で、「プロトカルチャー」は滅んでしまったようです。
たまたま、敵に捕まった主人公が女性と「キス」をする場面を見せたら、敵がすごくビックリしてしまい、「プロトカルチャー」と叫んだのです。
敵をやっつける事だけに生命を見出してきた「ゼントラーディ」にとって、私達が暮らしている「私生活」というものが、大変に脅威に感じたのです。
やがて、「ゼントラーディ」は小型化して人間の世界に調査隊を派遣します。
しかし、調査隊が「地球ファン」になってしまいます。
つまり、成す術なしと言ったところです。
私が、いわゆるこのアニメを懐かしむ年齢になり、不思議と重なる世界があるのです。
明治以降の日本が「ゼントラーディ」軍に感じるところが、多々あるのです。
どうしてだろうと、ふと感じる時があります。
私の視点で言える事は、現在の社長と言われる年代の方々は、こうした「マクロス」などのアニメを見ていない世代です。
それがどういう事かと言いますと、「特化した能力」を、そして「特化した世界」しか視野に写らない人達が多いと言う事です。
それが一概に悪いとは言いきれませんが、人間が正常であったならば、人間の生活を営むはずです。
人間の生活とは、マクロスで言うところの「プロトカルチャー」の世界です。
これも私の世代の話ですが、自分に自信がない人が多いです。
いや、自信はあるよと言いながら、不安感のぬぐえない人もいます。
また、学歴や地位を特に気にする傾向のぬぐえない方もいます。
会社の命令は絶対であり、家庭を会社社会の一部と捉えている人もいます。
それらは、彼らの事実であり、守ろうと感じるのであれば、守れれば良いでしょう。
陰口の止まない、他人との陰険な共有感の中で、自分の子供を自身のコピーように扱い、自分の社会的な商品価値のような扱いに仕立て上げ、もしくは家庭内で暴力が止まらない、浪費が止まらない、博打が止まらない、自殺を欲しがるようになる、留まるところの無い、地獄を理解した世界を好むのであれば、自己を放棄して他者の言葉に操られていれば良いと思います。
私のうちの経験ですが、現在の60代以上の方々の作った世界が、現在であると感じています。
それを守ることも必要ですが、現在の30代以下の世界も見新しい世界です。
それは不思議なパワーのある世代です。
良き世代があるのですから、その世代を保護しないといけないでしょう。
現在の日本を不安定にしている要素は、大国として、人間として欠けた部分を無視した「ゼントラーディ」軍になってしまった所です。
「ゼントラーディ」軍は戦いしか、理解できないのです。
それは、実は弱い事です。
自分を低く評価する、自分を他人と特に比べる傾向のある人は、常に自分を不安定な心理状態に置いています。
そうした人は、常に他者に対して怒りを現して、自分を誇示しようと務めます。
そして、常に孤独なのです。
なぜ、孤独になるかと言いますと、他者が自分のエリアに入ることを拒絶するからです。
拒絶する理由は、他者の目を警戒するからです。
他者と自分を比べる気持が、強いからです。
それが学歴や社会的な地位などです。
視野は極端に狭くなり、その狭い視野で自分を守ろうとしますから、他者との係わり合いが減り、やがては自己すら保護する事が出来なくなります。
特化した社会での利便性、つまり巨大化した「ゼントラーディ」としてしか生きる事ができないのです。
確かに、「ゼントラーディ」は強いですが、それは戦においてのみです。
それ以外の知識や素養がないのです。
それが自己破壊につながる事は、もうご理解して頂けたと思います。
私は、ささやかですが、「知識は道具」であり、その知識の奴隷になってはならず、他者の世界である社会に支配されてはならないと、ささやかですが、書かせてください。
自分の生命とは、確かに社会の中の成員である事は事実ですが、それは他者である社会から独立しているから、光輝くものです。
それは、ご縁というつながりの中で、輝いているものです。
「ゼントラーディ」軍に属しているよりも、「プロトカルチャー」を維持している人間である事の方が、何よりも可能性を持っているのです。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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