少しだけ「愛」の不足について語ろうと思います。

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

本日は「日記カテゴリー」にて投稿します。

 

表題のとおり、何と「愛」についてです。

お前が「愛」など語れるものか!と言われる事を十分に承知の上で投稿します。

 

さて、何故に「愛」なのかですが、前回の投稿で「愛」について語ったからです。

「愛」こそ最強であり、万物は「愛」の力なくして存在できないのです。

 

私達は生後まもなく、ご両親の元に育てられます。

これは哲学者アランの言葉でもありますが、「模倣(もほう)」をして成長して行きます。

この「模倣(もほう)」が大事で、これより「言葉」を理解し始めてゆきます。

 

マクスウェル マルツ博士は、赤ちゃんが「泣き叫ぶ声」は育て親に自分の存在を知らせようとしている行為であると言っています。

子供の頃は良いのですが、大人になっても同じような行動で、自分の存在を知らせようとする人が沢山います。

マルツ博士は、これが問題であると言っていました。

大人になるにつれて、私達は「赤ちゃん」とは別の方法を取らなくてはいけません。

 

さて、「赤ちゃん」がご両親に求めるものは「生命の維持」もありますが、「愛」を求めています。

だから、常に「甘える」という行為を取ります。

 

こうした「愛」の触れ合いは、生命にとって正常な事であります。

ただし、私達が大人になるにつれて、その方法は違ってこなければいけません。

 

よくブログ内で学生の「自殺」について取り上げますが、これは「愛」を理解していない為に発生しています。

私は、ここで言い切ります。

 

学校に行きたくもないのに、親は子供を学校に行かせます。その理由は「親」の勝手にあります。

「親」は自分の子供を社会の一員として・・・なんて、どこかの他人から受けた影響で、自分の子供をしっかりした人間にしたい気持ちがある事でしょう。

また、自分の子供が「親」の言う事を聞いている限りでは、それに満足します。

子供は、その状況を心底(インナーチャイルド)理解しています。

 

親は、自分のコピーロボットを作るかのように、子供に接します。

そして、必ず「ケチ」を子供に対して付け始めます。

それは「他人と比べたら、あなたはそれ以下よ」と言ってみたり、テストの点数で心を揺さぶったりします。

 

日常では、子供の目の前で「ドタバタ」してみたり、「イライラ」してみたり、「咳き込んで」みたり、子供の注意を引こうとします。

子供の心底(インナーチャイルド)は理解しています。

自分に降りかかる、家庭内での「イライラ」は、これは全て「自分」から注意を引こうとしている行為である事をです。

 

子供も内心に「イライラ」を見せるようになります。それが「アレルギー」です。

全てではありませんが、心の葛藤が「アレルギー」として現れ始めます。

もしくは「爪をかむ」などは、その典型です。

子供が、本来は「愛」を与えてもらいたいのに、逆に「育て親」に「愛」を吸い取られているのです。

子供の心は「限界」の中で、常に「葛藤」に蝕まれています。

 

そうした子供は、今度は学校で「いじめ」に合います。

何故、いじめをするかはご承知の通りです。

いじめる生徒は「愛」が枯渇しているのです。

だから、生徒をいじめて「注意」を引こうとします。

自分を、心底から「かまってもらいたい」現れなのです。

 

さて、学校でいじめられても先生が対応を遅らせます。

理由は簡単です。

先生に「愛」が無いからです。

「愛」の存在を理解していないからです。

「愛」の存在を理解していれば、学校なんて来させません。

 

一番良いのは「寺」か「教会」か「イスラムモスク」とか、とにかく隔離できる場所に身を寄せてあげる事です。

家庭も危ないと言う事です。

 

家庭に帰れば、社会的な影響をバツグンに受けているご両親は、「愛」をむしり取るかのように、子供の事を理解せずに接し続けます。

 

一遍の理解も子供には通じません。

子供は、口に出しませんが「愛」をむしり取られ続けている事を理解しています。

それが、子供にとっての「愛情」なのです。

ただし、これには限界があります。

子供の生きている環境内に「愛」が見えないからです。

その視野の極点は「自己の虚無」です。

 

この「愛」の奪い合いは、子供だけに見られる現象ではありません。

子供が親を殺す場合もあります。

それも、「法」には見えませんが、確実に「愛」を貪るように殺してゆきます。

それは「いじめ」を行う生徒のようにです。

 

さて、「いじめ」を行う生徒は「愛」をむさぼり、「愛」に充足するかと言いますと、そうではありません。

「愛」が充足しないのです。

理由は簡単で、「愛」がないから「いじめ」という行為で注意を引こうとしているだけだからです。

そうした人に、いくら社会的な道徳を語ろうとも、本質には「愛」が不足しているので解決には至りません。

 

社会に出れば、ここでも「いじめ」が絶えません。

理由は簡単で、「自分」を認めてもらいたいからです。

だから、常に辛辣(しんらつ)な言葉を選びます。

そして、そんな自分が正しいと感じて生きてゆきます。

それしか、理解できないのです。

他者の言葉に耳をかたむける事をしません。

 

家庭内では、親の子供に対する「しつけ」が強烈になり、暴力に発展します。

どうして良いか解らないはずです。

自分の中に「愛」が無いのですから。

 

やがて家庭内で騒動が絶えなくなります。

皆々が「愛」をむさぼり始めます。

しかし、暴力や攻撃、騒動の果てが答えであると信じ込んでいて、これが解決方法と見定めます。

何故に、そのような「道」を進むかと言いますと、その「道」しか「脳」の中に記憶されていないからです。

他のより良き「道」を歩む記憶がなく、自分が見ている視野の記憶のみを頼るから、過ち(あやまち)も真実として、受け入れて進んでしまいます。

 

人間が病気になる原因のひとつも「愛」が不足しているからです。

その限界的な気持ちで生き続ける記憶が引き起こす現象は、例えようもない大きな病として現れます。

ところが、多くの方は「病院に行けば良い」と思い込んで、本当に処置すべき場所を見誤ってしまいます。

幼少期よりの、多大なる記憶の処置を行わないといけないのです。

限界の中にある、傷ついた自己の存在が「病」として現れてくるのです。

 

特定の「病」を発症する家庭は、その先祖も同じような「病」になっていると思います。

これは、その家庭が連続して「負の記憶」を与え続けているからではないでしょうか。

 

日本は、外国人からみると住みやすく、心は穏やかで、安全な国と言われます。

しかし、私は違います。

私は、幼少期より「憎しみ」の方が多かったです。

それは巨大なものです。

大人になるにつれて、それが良くわかるようになりました。

「あいつらは異常だ(当時の大人)」です。

 

私は、ささやかですが「愛」の偉大さを知っています。

実は、皆々様が知っています。

 

口には出しませんが、その奪い合いを続けているのが、その証拠です。

病院へ行っても「処方箋」を出されてお終いでしょう。

「うつ病」なんて存在しない「病」を「病」として認めて、その中に埋没していてはならないでしょう。

 

本日は「愛」について少しだけ語って見ました。

「愛」があれば、ここに書きました事がウソのように消えてゆく事でしょう。

 

いわゆる「神」を、常に自分の中に体現できるようになるでしょう。

 

「愛」は、自分が求めようとすれば、必ず接する機会が訪れます。

だから、もしも自分が「愛」が不足していると感じてくれたなら、常に求めてみて下さい。

 

「愛」という言葉を求めてみて下さい。

「愛」のご縁の中に、つながってみて下さい。

 

「愛」のある方々は強烈であり、最強です。

 

私も、また別の場所で解決策などを投稿したいと思います。

 

しかし、これは私が投稿する行為で、それよりも新鮮なのは、これを読まれて、自分に当てはまると感じたあなたが「愛」を求める行為を続ける事です。

 

「愛」は最強です。

本当に最強です。

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

0 件のコメント :

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。