最後は「神頼み」とは都合の良い話だぜ

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

本日は「プチ神事カテゴリー」にて投稿します。

 

いやぁ、何かの本で適職が「神職」とあった事を思い出します。

確かに、このブログは哲学から始まりましたが、検索数では「神様」に関わる検索数が圧倒的に多い事が上げられます。

神様と言いましょうか、人間の精神をもっと投稿できれば良いと感じています。

私は、ブログの各所で「知識を道具として扱うこと」を語っています。

それは、個人という「光」が輝く為には、個人が個人の支配者になる事が必要だからです。

 

ある時の話です。

たまたま居合わせた人と話をした時の事です。

その方は色々な事を経験されてきたようですが、やはり根幹に「神」を信じているのです。

最後は神頼みという姿勢です。

 

信じて悪いか!という事になりますが、私は好きになれません。

私はその時、「人」を信じる事を説きました。

 

もう、このブログをご覧になる方であれば理解されていると思いますが、私達の内に「神」はあると感じることでしょう。

その力はとてつもなく、私達の人生を左右する、いや、私達に降りかかる困難を左右するぐらいの力のある事も経験されている事でしょう。

私は前回の「プチ神事カテゴリー」にて、「内在神」の話を少しだけしました。

 

いや、これは端的に万人に共通の「精神体」の事で、これに願いをかけると、現実として現われるよという事でした。

そのくらい強力なコアのある私達ですが、その私達の多くが「他者」の目線を気にして生きています。

 

いや、そんな事ないよと思われるかもしれませんが、これは事実です。

自分の決定権を他者の言葉に依存している方が大勢います。

 

そんな方々を良く理解する方法として、その方達が「怪我」を負っているかを見ます。

「怪我」とは肉体的な「怪我」もありますが、その内にある精神的な「怪我」であり「傷」です。

 

人の悪口ばかりをする人。爪をかじってばかりの子供。騒いでばかりの人。花粉症の人などなど。

花粉症に関しては「細木数子さん」が「心が硬い人」と言っていました。

これは私から見れば、「都会病」です。

 

それも心に受けた「怪我」や「傷」が春になってぶり返すのです。

その「傷」は、これまでの社会生活の中で受けてきた「記憶」です。

「記憶」が精神の内部に「傷」として完治せずに残っていて、これが肉体的な影響として出てきます。

 

私も子供の頃は、大変な花粉症でしたが、大人になるにつれて治ってゆきます。

何故だと思いますか。

これは「ホ・オポノポノ」の力に関係する話です。

http://mahakara.blogspot.jp/2015/10/blog-post_20.html

 

とにかく、私の中にある「得体の知れない」記憶の「傷」を処置していったのです。

それこそ、自分に対する「許し」です。

自分自身を「許す行為」が、自分の内部にある「怪我」や「傷」を治してゆきます。

 

 

さて、多くの方は、自分自身という存在に対して厳しく、生真面目です。

その上、他者の理屈や社会精神をうのみにします。

これが普通だと思ったら大間違いです。

 

これは大間違いですよ。

自分と言う存在に対しては「慈愛」を持って接します。

そうしないと、細木数子さんの言う通り「硬い心」の人になります。

自分に対しては「慈愛」の心で接します。

そして、人間は未来の事を考えるようには作られておりません。

だから、生真面目に将来に対して継続的な安定を求めてたらエラーを発生させます。

心配事が増え続けるだけです。

「毎日、言われたことをやりなさい」と言われるのと「今日も、頑張りましょう」と言われるのでは効果が違う事が解ると思います。

人間は「今」という現在しか、普段は視野に置けないのです。

 

また、先輩方の言う事を聞いて・・・とか先生の言う通り・・・とか、上司の言う事が全てだ・・・なんて受け止めないで下さい。

これは親の言う事も当てはまりますが、私達は幼少期より「他者」に従うように教育されていますし、私達も「他者」に対して「叫び」という声で、危機を知らせてきました。

それは赤ちゃんの「鳴き声」です。

 

赤ちゃんの「鳴き声」は「他者」に対しての「叫び」である訴えです。

これが成人になっても変わらないのが、礼儀を無視して叫んでいる人です。

 

また、嘘をつき続けたり、陰口を止めなかったり、爪をかみ続けたり、などなど。

これらは「他者」に対して「救いのメッセージ」を発しているのです。

その根幹は「愛」が足りていないのです。

「愛」を求めるために、他者から「振り向き」を求めているのです。

そして「他者」からエネルギーを吸い取るのです。

 

こんな人間になる理由は、他者の理屈や社会精神をうのみにしているからです。

やめればいいのに、わざわざ自分を傷付けて、精神の記憶に「傷」を付け続けています。

 

私は「愛」こそ最強でありますが、まずは「許し」という処置が大切であると痛感しています。

とにかく、自分を許すこと。

そして他人を許すこと。

許しとは、完全に忘れることです。

 

そうしないと「傷」が愛を求めて「鳴き声」を止めないからです。

 

このブログを見つけた方の、ご縁ある方であれば理解されると思いますが、だからこそ、

「最後は神頼み」という姿勢など、出ないはずです。

 

まず、常に、すでに一体であるのだから「最後は神頼み」になるはずがありません。

また、自分を「ご自愛」されている方なら、「最後は神頼み」なんてしません。

そんな言葉がでません。

それは、自分が光っているからです。

だから「最後は神頼み」なんて、言葉が必要ないのです。

 

「人」という存在を信じる心が、今は必要です。

神を信じると言うのではなく、人を信じると言う事です。

 

神を持ち出してしまうと、それは軽い知性の方だと「他者」の視点として、自分の光が弱くなってしまいます。

神はあって良いのですが、私が大切にしたい事は、「光る事」なのです。

 

「最後は神頼み」と言う言葉を持ちだして、大いなる力を導こうとする際の個人とは、おおよそは「赤ちゃんの叫び声」と同等なのです。

最終決定を他者に求めているのです。

 

それよりも、そんな言葉が出ない自分の環境を良くすることが、よほど過ごしやすいと言いたいのです。

 

どんな場面でも、自分を見失わないように。

絶対的な力を他者に依存しないように。

 

自分の中にある「見えない怪我や傷」を治すために、自分を「ご自愛」する事。

そうすれば、心も柔らかくなり、風邪にも引きにくくなると感じています。

実際、自分は風邪をひいていません。

 

精神に記憶された「怪我」や「傷」が、肉体に現われると言う事を知っていれば、自分を「ご自愛」して、毎日「許す」という作業をしてケアします。

すると内在の存在だろうエネルギーを解るようになりますし、誰かが語りだす「見えない神」に頼るなんて、とても変な現象だと感じるようになります。

 

「人」こそ素敵ですし、「人」こそ「愛」を持っています。

だから、そんな素敵な「人」が沢山あふれて、素敵な「愛」が満ちた世の中になれば良いと感じて、ブログを書いています。

安っぽい「最後は神頼み」なんて言葉、嫌いです。

 

それよりも、そんな言葉を発する人が「光輝く存在」でいてくれると、素敵でたまらないのですが。

これ、宗教とは関係ないですよ。

 

自分を愛すること。自分を許すこと。他人を許すこと。

これを1ヵ月でも習慣的にして頂ければ、人によっては花粉症も改善すると思います。

(すでに時期は過ぎましたが。)

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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