こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は「日記カテゴリー」にて投稿します。
いや、実は「この世は言語でしかない」なんて言われます。
これは一部の言語を学んだ人が話したりする事ですが、私は否定的です。
私も、少しばかり、ほんの少し学んでおりますが、それはないだろうと思います。
そう、思ってきました。
そう言っているにも関わらず、「物」は「言葉」だなと、つくづく感謝しています。
おおよそ、このブログは「感謝メイン」なので、どうしても、この流れになります。
さて、この世の溢れる「物」は、数えきれない数があり、そして価値があります。
そのような中で感じている思いがあります。
私は、「物」に執着する事が嫌いです。
例えば、「自動車」が良い例だと思います。
私からすれば、「自動車」は自分を運んでくれれば問題はありません。
しかし、それでは気が済まない場合があります。それが「価値」になります。
その「価値」に執着して、その車に乗り始めます。
「最高の車だぜ!」と思いながら、追い抜きをバンバン行ってゆきます。
それを横目でみる方は、とても嫌な気持ちがよぎるかも知れません。
しかし、車を走らせる方にとっては、それは良い事なのです。
所有する「自動車」の「価値」に惚れ込んでいるのです。
ところで、「価値」は、その車の「部品」に全てがある訳ではありません。
その「車」を作り上げる事に専念した、作業者の方々の想いが「価値」になっているのです。
「価値」が現実化しているのが、「車」になります。
ドライバーは、その「価値」に酔いしれているのです。
私は「物」という物質に心を奪われる事を拒絶しています。
人間は「価値」を得た時、そこに生きる喜びを発動させます。
私は、その「価値」を尊ぶようにしています。
ドライバーが、その例です。
人間が「価値」を提供する、最もありふれた手段は「言葉」によるものです。
他人との会話こそ、本来は「価値」のあるものです。
ある人に「プレゼント」を送ろうと考えるとします。
「プレゼント」は「言葉」を変えて、相手に届きます。
相手は、その「プレゼント」を受け取り、「物」という物体の中に「感謝」を見ます。
「物」を通じて「言葉」を理解します。
私は、「物」とは「言葉」という「価値」が、現実に具体化しているだけであると感じます。
だから、「物」自体には「価値」はないのです。
そうであるから、注意すべき点は「価値」のない「物」に執着すると、自分の心を失うのです。
ここで言います「価値」のない「物」とは、「言葉」に変えられない「物」の事です。
自分で手にした時に「感謝」を感じない「物」の事です。
ところが、わざわざ、この「感謝」を見いだせない「言葉」を真に受けてしまう時があります。
その時は、自分がいい加減な気持ちでいる場合です。
もしくは、疲れていたり、思考が停滞している時です。
本当の「価値」は「物」に宿るのではなくて、「物」は言葉の代弁でしかないのです。
私が尊ぶ「価値」は、精神的な、精神性をゆさぶる尊さなのです。
それは、いかなる「価値」においても、最も尊いと思っています。
その「価値」を他者に伝える手段が「言葉」という「言語」です。
しかし「言語」は、ただの道具にすぎません。
だから「言語」という道具に対して、安易に心を奪われてもなりません。
他者の「言葉」に「価値」を見出す事ができていれば、「言語」の分別はつくと思います。
何が「心地よい言葉」であるか、「不愉快な、だまそうとしている気配か」です。
最近ですが、近所の猫さんが「鈴」のついた首輪をして散歩をしています。
その鈴の音が鳴るにつれて、猫さんが気持ちよく散歩している姿が想像できます。
そうしますと、その鈴の音を聞いた人は同様に、気分の良い猫さんを思い浮かべます。
この「鈴の音」も「物」ですが、実際の「価値」は「物」を通りこした場所にあります。
私は、この「価値」の心地よさを大切にしています。
「物」はどんなものであっても、それ自体には「価値」はない。
言葉を具体化したのが「物」であり、人に感動を与えるツールであるだけなのです。
だから、その時に「言葉」にかえて「物」を大切にします。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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