「帰結」を求めて「答え」に落ち着く行動は「破滅」します

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

「思想カテゴリー」にて投稿させて頂きます。

 

私のブログでは、「神様」に関する検索が多いです。

それも、圧倒的にです。

 

これほど「神様」を描く方々がおられて、参考にされている事に対して驚いています。

ただ、そんな中で「神様」を描く方々の中に「生命力がない」と言いましょうか、そうした方も見かけます。

 

「現実主義者」の「ブッダ」は、外に「師」を求めずに「自己の中」に「師」を見出しました。

それが「真実」であり、問いかけるのであれば「自ら」に問いかけるようにしていました。

 

しかし「ブッダ」の死後、この「自ら」に問いかけるよりも「他者からの答え」を求める傾向が収まりません。

 

「他者」に「帰結」すれば、「自己」は「気薄」になります。

 

いかに「他者」が優れていましても、「自己」が「意識」を預けてしまいますと「自己」は小さくなってゆきます。

 

「お金持ちになる方法」や「自己現実の方法」、さらに「宇宙の真理」や「博学者になる知恵」など、自己の欲求は限りなく展開されています。

ただし、その「帰結」に「自分」を「投影」し続けている限り、「自己」は小さくなってゆきます。

 

「中村天風」さんが語っていた事に「目標を持たない」という言葉がありました。

 

「目標」を持つために、人間は「焦り」、つまり「苦しむ」という結果が生まれます。

 

だから、自分に関わる「事柄」に、ただ「積極的」に対峙する事だけ。

 

この「積極的」の果ても、結局は「ゼロ」に帰る、つまり「物事の始まり」にもどるのでしょうが、「帰結」を求めての行動よりも、遙かに救われます。

 

「帰結」として「神様」や「真言」、「自己実現」や「有名な先生達」、「幸せの為」や「自分勝手」など、つまり「帰結」としての「存在」を掲げますと、そこは「答え」に見えますが、「答え」ではないのです。

 

「帰結」として定めた事、この世界に「空」の中に「帰結」を求めた時点で、「自己」から離れてしまい、「自己」から離れた存在は「破滅」する以外ないのです。

 

この世界で「自己」がない存在は、消えてしまいます。

存在がないのですから。

肉体的に「有る」ように見えても、すぐに「気薄」な「無」と隣り合わせです。

この「無」は、存在を消します。

 

「破滅」の以降は、「破滅」した状態が続きます。

 

これは「科学的」に言えば「科学反応」と言います。

「ブッダ」が言うのであれば「因縁」です。

 

求めても、求めても、世の中で正義とされる「目標を掲げる」などしても、一向に「心」は「闇」の中にあり、行動は「地」につかない。

 

その答えは「帰結」を始めに求めているからです。

そして「自己」から「回答」を頂かないからです。

「自己」と相談しないからです。

 

「自己」よりも、「他者」に展開する世界と「会話」を優先させる結果です。

 

だから、初めに「答え」を掲げる事をしない事。

「答え」とは「描く」ものであって、「設定」する事をしない事。

 

「設定」は「契約」であり、その「点」のみに「心」を寄せるようになります。

 

「帰結」を求めて「答え」に落ち着く行動は「破滅」します。

 

だから、それは「円」を進めるように、全体を「積極的」に進む事。

そして、その「円」を歩む最中に「自己」と対話を行う事。

「自己」はいくつもの「回答」を与えてくれるものです。

 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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