ルーサー・バーバンクの言葉 「もし子供にかけるだけの愛情を庭の草木にかけていたなら、今頃は庭は雑草だらけで、ジャングルのようになっていることだろう。」

 

 こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

本日は「思想カテゴリー」にて投稿します。

 

表題が長すぎますが、本日はこの言葉から様々と世相を語りたいと思います。

 

退屈なすべり出しだしだ!と感じるのはごもっともです。

 

「ルーサー・バーバンク」は19世紀のアメリカの植物学者です。

だから、こんな言葉を名言として残しています。

 

この格言は読んでそのままの意味。

 

「もし子供にかけるだけの愛情を庭の草木にかけていたなら、今頃は庭は雑草だらけで、ジャングルのようになっていることだろう。」

 

「子供に愛情をかけすぎたら、子供は「わがまま」でメチャクチャになっちゃうよ」

 

01MIL79026

 

 

だから、子供には愛情の接し方が大切で・・・・・・という終わらせ方は致しません。

 

 

よく、お子さんが母親に叱られている場面を見るのですが、それを私は理解できません。

おおよそ、叱っている内容が「社会(他人)と比較して、自分を見つめなさい」という事を聞きます。(もしくは、行っている事が解らないの?です。)

 

社会人である為には、社会の中で競争心を持ち、切磋琢磨して、苦しみや悲しみを甘んじて受け入れて、正義の人でありなさい・・・・・と言った所でしょう。

 

ふざけるな!

そんな事したら、人間は雑草になってしまいます。

 

私達は「諸概念」に包まれて生活をしています。

その為に、その諸概念を克服する方法を探し出します。

しかし、ある諸概念を克服すれば、あらたな諸概念が見えてきます。

 

人間が「想像する」生物である限り、対象物に対して「心」を添わせる事を致します。

 

世の中にあふれる、大量の「自己鍛錬法」に関する書物も、この「諸概念」に対して克服する為のものです。

 

「占い」も、そのひとつです。

特定の「宗教」もそのひとつです。

 

自分自身を、対象する諸概念に対して、克服を目指します。

もしくは、諸概念と関わり合い続けます。

 

それを続けると、「もし子供にかけるだけの愛情を庭の草木にかけていたなら、今頃は庭は雑草だらけで、ジャングルのようになっていることだろう。」

になると言う事です。

 

身にに降りかかる、自分が思い描く想像は、自分が過去に受けた習慣、もしくは教えられた習慣を元に、想像を巡らせています。

その為、常に「克服」という事を描いていれば、「今頃は庭は雑草だらけで、ジャングルのようになっていることだろう。」と言う事です。

 

たまたま、「シルバー、バーチ」の本にも書いてありましたが、自分を反省する回数は、頻繁に行うものではなく、出来れば月1回や1年に一回程度が良いと言っていました。

 

本当に、その諸概念を克服しようとするのであれば、その諸概念を考えない事です。

 

出来る限り、考えないようにして、雑草を遊ばせる事を制限する事です。

 

これを行ったのが「親鸞」の教えです。

「南無阿弥陀仏」だけ、唱えてすませたのです。

 

もしくは、たまたまですが「真言」でも良いとは思います。

要するに、人間の世界で自然と発生している諸概念に包まれてしまうと、「もし子供にかけるだけの愛情を庭の草木にかけていたなら、今頃は庭は雑草だらけで、ジャングルのようになっていることだろう。」という現象が発生してしまうと言う事です。

 

雑草だらけを理解はしているが、刈り取る方法を探して、実は、その刈り取る方法が「雑草」を増やしていると言う事です。

 

皮肉な事ですが、私達が「苦しみ」「悲しみ」「後悔」「痛み」を思い返せば、それは「雑草」のように増え続けてゆきます。

 

だから、社会人である為には、社会の中で競争心を持ち、切磋琢磨して、苦しみや悲しみを甘んじて受け入れて、正義の人でありなさい・・・・・と言った事は間違いです。

お子さんに叱って「社会(他人)と比較して、自分を見つめなさい」という事もダメです。

 

「雑草」を増やさない為には、「雑草」から離れる事が大切になります。

変な話ですが、そう言う事になります。

 

この「離れる」という作業は、「雑草」を増やさない為に有効な手段です。

 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

0 件のコメント :

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。