本地垂迹(ほんじすいじゃく) 日本特有の思想体系

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「神様カテゴリー」にて投稿したいと思います。

 

本地垂迹(ほんじすいじゃく)について、少し投稿しておこうと思います。

 

本地垂迹(ほんじすいじゃく)って何?

 

そうです。こんな言葉は一般的ではありません。

 

日本という国で行われてきた、日本独特の行動様式です。(たぶん)

これは、日本が他国から輸入した「仏教」の神様を尊ぶ所にあります。

 

 

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「仏教」では「如来」や「菩薩」、そして「天部」の神様が登場しますが、「本地垂迹」の考え方では、この「仏教」の神様が、日本の神様なんだという考え方です。

日本に古来より祀らています「神々」は、実は「仏教」の神様の変化した姿であると言うのです。

 

例えば、「素戔嗚尊」は「牛頭天王」の別の姿。有名なのは、「天照大御神」が「大日如来」の別の姿で、日本に現れた神様であるとする考え方です。

 

現代ですと「ふざけるな」と言わんばかりの思想ですが、こうした考え方が受け入れられていたようです。

 

だからですが、「仏教」の神が「日本」に現れると、その神は「権現(ごんげん)」と呼ばれます。

 

有名なのは「蔵王権現」ですね。また、徳川家康は「東照大権現」として祀られています。

 

こうした流れを見ますと、「仏教」が日本人の世界に入り込んでいる事が良くわかります。

日本人の凄い所は、この「外来宗教」を難なく受け入れてしまう所だと思います。

 

そして「神様~」として願い続ける存在にしてしまうところです。

 

 

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そして現代に入りましたが、いまだに、この「救い」とも言える「神様~」という叫びを、行い続けている訳です。

 

ただ、私は、そんなに「クソ熱心」には拝むことは致しません。

「クソ熱心」に「拝む」というスタイルが好きな方は、それで良いと思います。

おそらく、「クソ熱心」に「拝む」というスタイルが一般的に受け入れられていると思います。

その為、それを否定する事は出来ません。

 

私も「神様~」というスタイルは好きです。

 

ただ、「五井」さんの語録を持ち出しますと、結局、大切な事は「神」を理解している事が大切です。

 

特に「苦行」を行わずに、「神様~」と想える心があればそれで良し。

「クソ熱心」に「苦行」を重ねて、自己を滅して「神様~」と想える心があればそれで良し。

 

結果が「神様~」と想える心があれば良いので、ならば簡単な方を取ります。

つまり「苦行」は致しません。

 

また、変な宗教に介入する事も致しません。

そんな事をする必要がないからです。

 

「本地垂迹」に従い、様々な神々が存在を現わしますが、その神がある世界を想う事が、非常に大切である訳です。(「五井」さんの語録より)

 

その世界に意識がある事で、この世界を見つめる事が出来ます。

 

この世界を見ているだけでは、生きてゆく事が大変です。

 

「物質」の世界を「物質」の世界だけで見続けている人間なんて、誰もいません。

しかし、何故か「物質」の世界を「物質」の世界だけで見続けている事を、必要に教える現代です。

 

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人間は必ず「想像力」を働かせています。

「想像力」を働かせた後、それを「実体化」しようと試みます。

 

この「物質」を超えた「世界」の在り方を、本当は毎日行っていますが、何故か「物質世界」であるという現実しか見よとしない方々ばかりです。

いや、そんな物言いしかしません。

 

日本人が古来より、こうした「本地垂迹」が出来た事は、現実世界というよりも、しっかりと現実を離れた世界を感じ見る感覚があったからです。

 

「物質」の世界を「物質」の世界だけで見続けようとしますと、必ず「物質的」な答えが必要になります。

そうした明確な「答え」として「占い」や「新興宗教」が現れ、心をそちらに向けてしまいがちですが、そこに「答え」はありません。

 

あると言うのでしたら、それは「物質」の世界を「物質」の世界だけで見続けようとした個人の行動の結果です。

 

それは「神様~」の世界ではありません。

 

 

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「想像力」という、人間しか持っていない力を持つ存在者である限り、この世界は「想像」から生まれ続けます。

この「想像」に「質量」が付いたとき、それが「現実」という「物質」の世界です。

 

だから、私達は「想像力」を持つ限りにおいて、「物質」よりも上の世界を理解出来ているのです。

これを怠りますと、下手な「ネガティブ思考」に追い詰められて行きます。

 

だから、私は「神様~」という心は必要であると答えます。

それを解りやすくしたのが「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」であると思います。

 

「神様~」の前では「ネガティブ思考」にはなりませんでしょ。

 

そして、ただ「神様~」と想うよりは、自分が「神様~」と同じように生きている事を理解します。

 

 

かんながら たまちはえませ

 

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この言葉を口にすれば「運気」が上がるとか、「神様」の為になるとネットで書かれていたり見ますが、私はそう言う事を書きたくはないのです。

 

いかに「自分」が孤独であっても、「神と共にあるよ、お互いに栄えるよ」という勇気づけになるのです。

その時、心は「晴れやか」になるのです。

 

 

本日は「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」について投稿してみました。

 

必要な事は、私達が「物質」を超えた存在である事。

 

だから、「物質」の世界に偏った言動では、人間を生かす事が出来ない事。

人間は、動物の中で唯一「想像力」を持った存在であり、その「想像力」を働かせて生きているのに、何故か「物質」的な答えしか求めようとしなくなる事。

 

しかし、現実は「想像力」に「質量」が付いたときに「現実」となるので、私達は基本的に「想像力」を扱える「物質」を超えた世界を理解していきていると言う事。

 

その世界とは「神」の世界であると言う事。

大切な事は、その「神」を理解して、「神」の世界に意識を持つ事。

 

それが基本的に有意義であるから、古来より、誰もが「神様~」と手を合わせていた事。

そこで生きたのが「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」でした。(たぶん)

 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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