こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は「プチ神事カテゴリー」にて投稿します。
標題的には「超常現象カテゴリー」的なのですが、神様系に近いと思い、こちらに投稿します。
まず、唐突に「想念」のお話です。
この世に存在する物質的な現象は「あの世」に持ってゆくことは出来ません。
この世で発生する物質的な現象は、「あの世」とは関係ありません。
だから、この世の物質的な現象に執着を行えば、それは「幽体」にこびり付いたまま、「あの世」に持ってゆく事になりますが、役に立ちません。
「あの世」と「この世」では、存在が違うからです。
この世で「肉体」という「衣」の中に「御霊」である「神」を有しているのが私達であるとして、同時に「この世」の「肉体」をまとっているのも私達です。
とある仏教徒のごとく、「凄まじい修行」を行う事で、この世に真実を見つける方々。
現実世界での利益を獲得する為に、世の中にあふれる情報を巧みに手に取り、大金を手にしながら、学歴社会のような階層を見続ける方々。
こうした方々の行う先には「想念」が発生しています。
この現実世界に生きる為に、現実世界の中で「想念」という実体を発生させています。
それが可能なのは、この現実に生きているからです。
例えば、「神社開運」なんてあります。
「私は先生の言われる通り、自分の感情をコントロールして、神と同調して、生活がゆとりある方向に変化しつつあります」
なんてコメントが、あったとします。
これは「シルバー、バーチ」も「出口王仁三郎」も言っていた事ですが、基本的には「神社」なんてない方が良いのです。
基本的にはです。
ところが「神社開運」なんてありますと、ついその気になってしまいます。
しかし、これは単に、「自分が自分の想念を発生させて解決した」という事です。
現実を導いているのは、自分と言う存在が現実に存在している限りにおいて発生させている「想念」です。
五井 昌久先生は、「想念体」と呼んでいます。
この世界の現象は、この肉体である「想念体」が担っています。
だから、基本的には「想念体」が主なのであります。
ところが、別の側面として「御霊」という「神」の心を有しているのが「人」です。
だから、五井 昌久先生は「人」は「神」と「想念体」を有すると話しています。
「神」を有しているのは、「人」という個々人です。
神社だけではありません。
その「神」を有する「人」が、現実世界では「想念体」を有して、生活の為にお金を稼ぐなどの「想念」を現実化させています。
たった、これだけなのです。
それなのに、どうしても人間は「修行」などの「感情」に目を向けがちになります。
例えば、お父さんが会社で「リストラ」にあいました。
友人が病気になりました。怪我をしました。貧乏になりました。
こうした生活苦に対して、もしくは「すばらしい世界の展望」を思い浮かべたとして、何故かその解決手段として「自己啓発」の方向に進んでしまうものです。
自分を操作できるのは、自分しかおりません。
その自分が、知らない間に、自分という「想念体」を操られ始めます。
それは、自分が現実の世界に「固執」しているからです。
どんなに「開運パーティー」があろうと、あくまで、その開運を考えて導びき出しているのは「あなた」の想念体である事。
別に、「苦行」を行う必要もありません。
ヨガ的な「妙なポーズ」をとる必要もありません。
「想念法」などの「本」が売られていますが、「想念」は「あなた」が発しているもので、それが現実を生きるパワーになっています。
だから、「他者」の言う事を聞き入れなければ、「幸福」を手にすることは出来ないという事はありません。
そりゃ、他人の意見に耳をかたむける必要はありますが、ただ傾けるのではなくて、聞いて理解する事が大切です。
「人」には「神」という「御霊」を有すると同時に、「想念体」という「肉体」を有しています。
しかも「想念」は肉体を離れて、現実を駆け巡り始めます。
また、その「想念」を利用して、他人の「想念体」を操る事もできます。
(電車での居眠りを見て眠くなるのが、その典型です。)
さて、人間が死んだとしても、「お経」なんて意味はないでしょう。
それなのに、生きている間に「神社開運」や、その他の「悪の手引き」に引っかかると、自分の目に写る世界が華やかに見えても、それは他者が、その人の「想念」を操っているだけで、実際は「開運」を目指すなら、自分の「御霊」の働きを基本として、現実世界に、もっと自分らしい「想念体」を働かせていさえすれば良い訳です。
ただ、この現実世界には理解できない不思議な事が数多く発生する事はわかります。
その理由を考える必要はありません。
あの世から見れば、この世の現実は存在していないのです。
また、この世で発生する事柄を「カルマ」と呼びますが、付き合っていると疲れます。
例えば、目の前に「隕石」が落ちてきて、これに「フザケルナ」と考える人は少ないでしょう。
「隕石」が落ちてくる原因や、きっかけなんて、計算できません。
それに、そのことに文句を言ってもどうにもなりません。
こうした「想念」を持ち続けて、執着する事が問題です。
それが「穢れ」なのです。
こうした「穢れ」を理解できずに、他者の作っている世界にのめりこんでいると・・・・・これ以上は言わなくてわかる事態になるでしょう。
「このくそ野郎」と思い込む「想念」を持ち続ければ、自分が壊れてゆきます。
「神」の「心」ならば、「このくそ野郎」と執着するかな・・と思いますと、おそらく無いでしょう。
基本、神は「愛」ですので、神ならば考えないような・・と思われると良いかもです。
ただし、肉体的には「ヒート」が止まらないでしょう。
これは致し方ない。
変な自己啓発や宗教に入会しない程度に、行動して頂く以外ないでしょう。
ひとつ、心理学的な方法があります。
とにかく、怨念の限りを手紙に書きます。
相手の名前を記載して、感じる限りの怨念を手紙に書きます。
時間をかけて、しっかりと怨念を込めて書きます。
そして、封筒に入れます。
封筒にいれたら、その場でゴミ箱へ破り捨てます。
出来れば、火事にならない様に燃やし尽くします。
これはふざけて書いているのではなく、マルツ先生の著書より学んだ事です。
つまり、「穢れ」の想念を自分から払い除けるのです。
さて、今回は「想念に支配されるな、想念体を理解しないと操られる!」という標題で書いてみました。
どうぞ、この世では「あなた」が主人公なので、あなたを大切にする為にも、「心」を大切にすることは勿論ですが、現実を体現しているのも自分である事。
だから、他者よりも、まずは、ご自身を「ご自愛」される事の大切さを、少しでも伝えられたら幸いとして、閉じます。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
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