両親とは、究極の他者であります。

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「日記カテゴリー」にて投稿したいと思います。

 

よく「お悩みサイト」などで見受けます問題の中に、「ご両親」と「子供」の問題がある事を多々お見かけします。

 

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それは例えば、「ご両親」が、自分達の子供に対して「ニート」になってしまい、社会的に自立できるか心配だという内容があります。

もしくは、子供が思った通りに行動してくれずに、困っているという内容です。

 

つまり、「ご両親」がご自身の子供に対して、期待した通りに成長してくれずに悩んでいるという内容になります。

 

私は、このブログを読んで頂ければお解りと思われますが、思考が「アウトサイダー的」な所を持っております。

 

その為、どうしても、「ご両親」という存在を普通にとらえる事が出来ません。

 

人間は、自分の都合の良い場所に落ち着くものです。

 

この基本的な性格は、「ご両親」も同じなのです。

 

まず、間違いなく、お悩みサイトに投稿する「ご両親」さんは、自分と言う存在が行っている事、そして経験している事を正しいと思っております。

自分が苦しい思いをしているから、解決策を望んでいる訳です。

 

さて、その「ご両親」の苦しみの対象となっている「子供たち」はどうでしょか。本当に「悪者」としての対象なのでしょうか。

 

私が察する限り、ご両親の苦しみの対象となっている子供たちは、確かに悪い存在になっています。

しかし、その存在に作り上げているのが、間違いなく「ご両親」です。

 

人間には各個人、本来は「魂」がございます。

その「魂」は、本来は「生きる事」を理解しております。

 

「生きる事」を理解している「魂」は、いわるゆ「狐」や「狸」には馬鹿されない事でしょう。

そうした「生きる事」を知っている「魂」が自衛の手段を取るとしたら、何を行うと思いますか。

 

それは「沈黙」です。

 

「沈黙」の中に、唯一の「自己」を守っているのです。

 

しかし、この「自己」をこじ開けようとする「他者」がおられます。

この「他者」は、自分が描く世の中の「理(ことわり)」や自分の都合を、絵の具を使ってキャンバスに絵を描くかのように、何度もキャンバスに修正を加えながら、世の中に見栄えの良い絵を描こうとします。

「魂」という存在を持つ、キャンバスとはまるで異なる存在を、本来は手も出せないような尊い存在である「魂」に対して、平然と手を下し、色の修正を加えて、形を変形させます。

 

誰もが、この行動を「愛」という言葉で捉えがちですが、決してそうではありません。

「愛」がある者であるなら、「魂」を歪ませる思考や行為は出来るはずがありません。

 

つまり、「ご両親」こそ、まったくの他者よりも近く、子供の「魂」を歪ませている要因を作る、究極の他者なのです。

しかし、全ての「ご両親」という事ではない事を、付け加えておきます。

 

 

私は、私に関わる方々に対して、本能的に守っている部分がございます。

それは、その方々の「魂」になります。

 

これは、例え「善人」であっても「悪人」であっても、「魂」を私が歪ませる事は出来ません。

 

全ての方々は「魂」に「生きる」という仕事を持ち合わせています。

 

その「生きる」に対して、私が「怒鳴る事」はあっても、その「魂」に修正を加える事はできません。

 

「水」が高い所から流れ落ちる自然のように、私は流す事しか致しません。

 

「魂」が自己の流れに反して苦しめられる事を、重々理解しているからです。

 

どうしても、「親子」さんという存在は、お互いに「親」と「子」であり、血液や肉体が一致しているという面を重視しがちです。

 

特に「子供」はその傾向が強いと思います。

その為に、本来は使う必要もない「慈悲の想い」を「ご両親」に捧げてしまい、学校などの環境から、知らない間に「自殺」をするほどまでに弱まっていたりしてしまいます。

 

私から言わせれば、「慈悲の想い」などを、自分が苦しめられている環境も理解できない「ご両親」には使わせる必要は、まったくありません。

それどころか、さらに「子供」を追い詰める策ばかり考える事でしょう。

それが意識的では無いにしても、その結果、子供は「沈黙」を迎えるしか無くなるのです。

子供は様々な世の中の辛い経験を重ねてゆきますが、「ご両親」の思い描く世界と、子供が経験する本当の世界とは、かけ離れてゆくのです。

それでも、「ご両親」の理解する、描く世界を永遠と描き続けます。

 

そんな「他者」に、自分の「魂」を預けてなるものですか。

 

だからこそ、隣人がいるのであれば助けを求め、無理であるなら警察に助けを求め、無理であるなら、市役所に助けを求め、無理であるなら、他の学校に入り込んで校長を捕まえて助けを求め、無理ならば都庁へも行って助けを求め。

 

心が悲しみに満ち溢れる時と言うのは、何かしらに「気づき」が訪れるものです。

ある人は「ご先祖様」であり、「大自然」であり、「神様」でしょう。

 

私が気付かされた事は、子供たちの人格をも飲み込んでしまうような事に気が付かない「ご両親」がいるのであれば、それは危険な事であると言う事です。

 

そういう事が出来る人間とは、通常であれば「縁」のない他人様です。

だから、「魂」を沈黙に導く「ご両親」がいるのであれば、それは「他人様」です。

 

そして、間違いなく、全ての「ご両親」さんは、このような「子供」のキャンバスに絵の具を使ってモチーフを描いたはずです。

そして、それを「人格形成」に必要な事であったと認識しているかもしれません。

 

「魂」を持つ存在は、「知識」が劣っていようと、その「魂」を光らせていないとなりません。

それが「生きる」という、最も尊い存在だからです。

 

私達は成長と共に、様々な方々とのご縁を経験します。

その方々の中には「親」と呼べるほどの経験を理解させて頂いた方々がいると思います。

 

決して、生まれの「ご両親」だけが「愛」を持っている訳でなく、もしかしたら「ご両親」に「愛」が見当たらない場合もあるのです。

 

自分の近きに接する場所にしか、「愛」や「知識」を限定るする事無く、数多くの「愛」や「知識」に接する事を望みます。

 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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