「機械主義」も「合理主義」も「神秘主義」も、生活の道具に過ぎません。

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「哲学カテゴリー」にて投稿したいと思います。

 

私はこのブログにおきましては、「機械主義」も「合理主義」も「神秘主義」も、混ぜて投稿しております。

その理由は、すべて正しい事だからです。

 

しかし、最も見誤ってはいけない部分がございます。

こうした「主義」は、いずれも生活を過ごす為の道具にすぎない事です。

 

ところが、こうした「主義」を「精神」や「文化」の基本軸と捉えて、全ての物事の判断を行おうとする安易な判断が、どうも蔓延しております。

 

よくテレビや雑誌などの討論を見ますと解る事ですが、「機械的に導き出された答え」を第一と考える学者さんなどを見かけます。

 

そして困る事は、その雰囲気や態度を視聴者が「うのみ」にしてしまうと言う事です。

 

物事の判断を機械的に考えた代表的な人物は「デカルト」であると思います。

一切の現象の判断を、その「主観」を排除して、残る「客観」のみで徹底的に対処する方法です。

 

ただしかし、このような目線で物事を見てしまいますと、どうしても「限定的」な回答が導き出されます。

 

「花」が美しいのは「色」があるからなど、そのような返答になるでしょう。

 

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photo credit: Wishing You a Happy Easter via photopin (license)

 

 

しかし、芸術家から見れば、まったくそのような回答はしません。

 

「花」が美しいのは、「機械主義」的な美しさも持っているが、それ以上の特性を備えているからです。

 

「機械主義」では、このように「真の美しさ」について語る事が出来ません。

 

 

「合理主義」も同様です。徹底的に論理的に考察する態度ですが、その代表者は「ヘーゲル」でしょう。

 

しかし、「合理主義」の欠点は、非合理的な結果を排除する所にあります。

排除される結果とは、人間にとって本当に都合の悪い物なのでしょうか。

例えば、「宗教」など「合理主義」から見れば、人間を堕落させると見なされるでしょう。

 

では、その「宗教」的な主義である「神秘主義」はどうでしょうか。

「神秘主義」に自分を置けば、確実に救われるでしょう。

何故なら、自分を囲む様々な現象に対して、唯一「救い」として置かれ、自分の意思や精神の安全な置き場所として機能するからです。

 

こうした「主義」は、その主義に飲み込まれてはならない道具です。

あくまで、生活を過ごす過程の中で、問題を解決する為に思考を巡らせる為の道具です。

決して、その道具を「うのみ」にしてはいけませんし、頼り切ってもいけません。

 

大切な部分は、人間が生きる「意味」とは何であるかを理解するところにあります。

 

私は、今までの生活の中で様々な方々に出会ってきました。

それは「堅苦しい」人間や、「理屈」ばかり言いたがる人間。

まったく私生活は普通だが、「宗教」を熱心に行う人間。

 

この方達は、その「主義」に身を置くことで、世の中の正義を理解したつもりなのです。

それ故、この「真理」を大切に守ろうとします。

 

しかし、私から言わせれば、それは「真理」ではないのです。

 

それは、毎日の移り変わる世の中を理解して生活する為の道具に過ぎないのです。

大切な部分は、人間が生きる「意味」とは何であるかを理解するところにあります。

 

そうしないと「目的」が浮かんでこないのです。

 

 

例えば、「ナポレオン・ヒル」などの成功哲学として合理化された成功する為の「マニュアル」があったとしても、実践できていない方がいらっしゃると思います。

 

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File:Napoleon Hill headshot.jpg - Wikimedia Commons

 

「機械主義」や「合理主義」を訓練して望んでも、本当に「人間の豊かさ」を理解した土台がないといけません。

 

大切な部分は、人間が生きる「意味」とは何であるかを理解するところにあります。 

そうしないと「目的」が浮かんでこないのです。

 

この「目的」を得る為の道具が「機械主義」であり「合理主義」であり「神秘主義」であるのです。

 

あくまで、道具であるという事です。

これに「とりこ」にされる事ではありません。

 

この「とりこ」にされる方々の言動で、解り易い例を上げて見ます。

 

実を言いますと、私は「福沢諭吉」があまり好きではありません。

頭は良いでしょうが、明治維新の時代に「命がけ」で戦った訳でもありません。

そんな「福沢諭吉」は、朝鮮半島などの革命家を支援します。

 

理由は、日本の明治維新のような発展を望んだからです。

しかし、これは失敗してしまいます。

すると、「福沢諭吉」は「脱亜論」という書物を発行しました。

 

これは、「日本」こそがアジアを脱してという書物ですが、その根底は、革命が果たせない結果も含んでいます。

 

そして帝国主義の元、日本はやがて植民地支配を開始します。

そして「朝鮮半島」の侵略を行います。

当時の国際情勢の中、巧みな外交の元に、公認された格好で占領を行いました。

 

もちろん、朝鮮王朝の王様は、その併合の調印時には表に出来てきませんでした。

「日韓併合」は、とりあえず達成されます。

 

朝鮮の方々からしたら、「日韓併合」は望んでいた訳ではありません。

(一部にはいたでしょうが。)

 

こうした出来事を、どうしても日本の多くの方や、若者の口から別の表現で聞きます。

 

「日韓併合は朝鮮が望んで行ったんだ」という声を聴きます。

 

本当に良く聞くんです。

 

この思考が「とりこ」にされる方々の言動であります。

 

この「とりこ」にされやすい思考は、「機械主義」や「合理主義」や「神秘主義」に留まる傾向を見ます。

 

 

大切な部分は、人間が生きる「意味」とは何であるかを理解するところにあります。 

そうしないと「目的」が浮かんでこないのです。

 

「機械主義」や「合理主義」や「神秘主義」は、その為の道具です。

その道具を真実と見る限り、包括的な事実はつかめないものです。

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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