私が語る ピカソの大作「ゲルニカ」についての意味

 

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回は「思想カテゴリー」にて投稿したいと思います。

 

ピカソの大作「ゲルニカ」についての意味についてです。


 

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photo by guernica_large | The original painting by Picasso. Use the … | Flickr - Photo Sharing!

 

 

この絵は、1937年のフランコ将軍による「スペイン内戦」時に描かれた作品です。

一般的にこの絵は、ピカソが「戦争」に対して描いた政治的なメッセージと捉えられています。


 

しかし、多少なりとも展覧会などに足を運んだ方なら解ると思いますが、決して「戦争」に対してのメッセージだけの作品ではありません。

 

又、ピカソ自身が、解釈は様々であって良いと思っていますので、私もその線にのって述べていきたいと思います。

 

 

この絵のポイントは、こちらの3点であると思います。

① 少女の「灯」が効果を失っている事
② ミノタウロスの復活
③ 馬の暴走



 

 

①少女の「灯」が効果を失っている事について見てゆこうと思います。

 

ピカソの作品の中に「少女に導かれる盲目のミノタウロス」という作品があります。

 

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photo by Thierry Picasso Pablo - La Minotauromachie, VIIème état Paris - Musée PICASSO

 

 

 

ピカソは、少女が「ミノタウロス」という牛の怪物を誘導する絵を何枚か描いています。

 

この「ミノタウロス」は、性欲の化け物です。ある意味、男性の性的な興奮の凶暴さを表すでしょう。

 

こちらの絵を見て頂けると、ピカソの「ミノタウロス」感が解ると思います。

 

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photo by Pablo Picasso - Bacchanal and Minotaur - 1933 / kaitlin.marie

 

 

この性欲、いや、「ミノタウロス」的な力は、決して誤ったものではないと思います。

 

純粋に、人の中にある力であり、美しいものです。

 

しかし、この「ミノタウロス」が人間の世界に現れて、そして暴走してしまいますと、手の付けられない世界になってしまいます。

 

この、「ミノタウロス」の「封じ込む」のような役割をしていたのが、少女の持つ「灯」でした。

 

では、その「灯」は「ゲルニカ」の中では、どうなったのでしょか。

 

「ゲルニカ」の画面中央部に、このような絵が描かれています。

 

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photo by guernica_large / tiganatoo

 

これは何でしょうか。これは、決して太陽などの「灯」には見えません。

 

ピカソは、同様の画を「白馬」の中に書いていたりしているのですが、これはおそらく女性の「陰部」です。

 

肉体を持つ人間の、「快感」や「快楽」、「解放」の中心となる部分です。

 

さて、少女の持っていた「灯」は、「ゲルニカ」の中ではどこにあるかと言いますと、やはり画面中央部に描かれています。

 

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photo by photo by guernica_large / tiganatoo

 

しかし、この「灯」は効果を示してはいません。

 

何故なら、「ゲルニカ」で言えば、その世界の中心に「快感」や「快楽」、「解放」の象徴である「陰部」、つまり「エクスタシー」が現れたからです。

 

このサインによって、「ミノタウロス」を封じいていた少女の「灯」は意味をなさない存在になっています。

 

 

ミノタウロスの復活について見てゆこうと思います。

 

「ミノタウロス」が復活すると、どうなるのでしょうか。

 

この絵は、「ミノタウロス」の行動を表している1つです。

 

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photo by Minotaure et jument morte devant une grotte face à une jeune fille au voile, Pablo Picasso / La case photo de Got

 

「ミノタウロス」は、男性の性のサガを表すものでもあります。

 

それは、攻撃的な「挑発」であり、「挑戦」であり、「可能性」であり、「未来」でもあるでしょう。

 

こちらの絵では死んだ「白馬」を抱えています。

 

ピカソは、よく「白馬」を女性的なものとして描いております。

 

つまり、「ミノタウロス」という欲望が、「白馬」という女性と「イコール」になるのです。

 

ピカソの絵の中には「白馬」にのった女性が、「ミノタウロス」を退治する絵も描かれていますが、逆に「ミノタウロス」に攻撃されている絵もあります。

 

「ミノタウロス」的な力は悪い訳ではないのですが、その方向性が世の中の秩序の中に現れますと、「破壊」などの行為が出てくる訳です。

 

こうした「ミノタウロス」的な力は、人間(特に男性)の誰の中にもあり、うまい言葉で表すなら、日常の生活においては「善」と「悪」のような宗教的な区分で律している訳です。

 

しかし、そうした働きも、人間の本質的な「エクスタシー感」により、圧殺されます。

 

 

 

馬の暴走について見てゆこうと思います。

 問題は「エクスタシー」であります。

 

いや、「エクスタシー」が悪いのではないのですが、この「エクスタシー」によって「白馬」さえも、統制が取れなくなりました。

 

「白馬」はピカソの絵の中では「牛」にまっぷたつにされたり、攻撃されたり、つまり「女性的」な性の存在感があります。 

 

「ゲルニカ」を見て頂けると解るのですが、そんな「馬」が「ミノタウロス」の復活と共に、画面の中央で暴れております。

 

こうした、「牛」と「馬」のコラボレーションは、別の絵にもあります。

 

「闘牛士の死」と言われる絵です。

 

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photo by 3_07_1150Corrida:LaMortDuTorero1933 | Explore cvalette's pho… | Flickr - Photo Sharing!

 

 

この絵では「牛」に対して「馬」が、闘牛士の「死」を、さらに印象付けています。

闘牛士の死を、「馬」が華やかに飾っています。

 (この絵には別の意味もあります。ご興味がございましたら、絵を良く見て頂くと解ります。)

 

こうした状況は非日常的な事です。

 しかし、こうしたエネルギーが、実は日常的な生活の中にあふれています。

こちらの絵は、それを語るに良いと思いました。

 

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photo by Jaume Meneses Madrid´09 COL-LECCIÓ del Centre d´Art Reina Sofia

 

この絵を見て、悪意を感じる方は少ないと思います。

 

男性のエネルギーも、女性のエネルギーも、純粋に喜びの中にあると思います。

 

おそらく、こうした状況では、別に「宗教」や「社会的規律」など無関係の時間が流れているはずです。

 

お互いの愛に、あふれているはずです。

 

別の絵も、見て頂きたいと思います。

 

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photo by Jaume Meneses Madrid´09 COL-LECCIÓ del Centre d´Art Reina Sofia

 

こちらの絵は男性はおりいませんが、やはり「宗教」や「社会的規律」を度外視した、人間のエロティシズムがあふれています。

 

日常の生活の中で、愛にあふれた「ぬくもり」や「嬉しさ」にふれている訳です。

 

この絵の中に描かれている「壁」も「タンス」も「服」も「指」も「髪」も「ほほえみ」も、現れる世界を「いとおし」く思える訳です。

 

こうした状況下で決断する行為についてですが、人間という存在は、決して自分達が誤っているとは考えないものです。

 

しかし、実際には、この日常を形成している意識の世界も、「ゲルニカ」で展開される意識の世界も、同じ「歓喜」である「エネルギー」によって作られているのです。

 

人の「生」として、導き出す結果が、「ゲルニカ」における内乱でした。

 

つまり、「ゲルニカ」で発生したような「内乱」が、常に起こりうるのです。

 

スペインで言うならば、「闘技場」内で運営されていた「狂気」が、それを抑止する少女の「灯」を消し去り、日常社会に姿を現している状況です。

 

人間という存在は、あっけなく「善」と「悪」を区別して、判断して取りまとめようとしますが、これは、本来は「なまけもの」の行動です。

 

まるで、経典に書かれているかのような「規則」や「規律」に、本来はそれを凌駕する、人間の営みの空間を当てはめる事は出来ません。

 

その理由は、上の日常風景の絵の2枚を見て頂ければわかると思います。

 

ピカソの「ゲルニカ」と言う絵は、男性の性的興奮的な「ミノタウロス」的な力と、女性的な性的興奮的な「馬」の暴走により、華やかに闘技場で「闘牛士の死」が展開されるのと同じように、日常の世界に展開された世界でした。

 

人は恐怖して絶望し、絶叫を上げて天を見上げる。

 

暴走する「馬」のエクスタシーの中に踏みつぶされ、それでも女性の快感の象徴である「陰部」が頭上に輝き続ける。

 

それを防ぐ手立ての、少女の「灯」も、この時には役に立っていないのであります。

 

世界は「絶叫」と「悲鳴」という怒号が飛び交いますが、それは「エクスタシー」とも言える、「エロティシズム」の中に展開されます。

 

人間のサガの中に、体現された世界が「ゲルニカ」でありまして、決して戦争だけを語ったものではありません。

 

私は、「ゲルニカ」については投稿したいと思っていました。

 

そこには、人間の自然さが、ただ不憫な世界になっただけの世界ではありますが、その根拠には、人間の普通の生活の中にあるエネルギーがある事を、述べたい気持ちでおりました。

 

さらに「ゲルニカ」は、キュビズムな手法によって、簡素に端的に、そして強くイメージを与えております。

これが、普通の絵でしたら、印象の力は陰りを見せていたと思います。

 

人がこの世界で、良く生きてゆくためには、他者に対して「寛容」である事が大切です。これは、「バートランド・ラッセル」の言葉です。

 

天才と言われたラッセルが、混乱した20世紀を生きて得た言葉です。

 

そして、常に「他者」の存在を理解して「耳」を傾け、「良心」を持って接する事です。

「良心」の大切さは、「ソクラテス」の言葉です。

 

私達の日常は、あっけなく「ゲルニカ」という世界に陥りやすく、判断をあやめ易い傾向にあります。

 

どうぞ、私の投稿が少しでもお役にたてる事を願います。

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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