松陰神社にご参拝をさせて頂きました。

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
今回は「思想カテゴリー」にて投稿したいと思います。

吉田松陰先生がお祀りされております「松陰神社」にご参拝をさせて頂きました。

 

カテゴリー的には「神様カテゴリー」に近いのですが、決して神様を尊ぶという事が主題ではありません。

 

吉田松陰先生に惹かれて、ご参拝をさせて頂きました。

 

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知らなかったのですが、吉田松陰さんは、東京にお墓があるのです。

場所は「東京都世田谷区若林4-35-1」。

 

渋谷駅から「東急バス」より、約20分で到着します。

降り口「松陰神社前」。

バス停を降りて左を進みますと「セブンイレブン」があります。

その「セブンイレブン」を背にして一直線に進みます。

やがて踏切が現われ、さらに進んでゆくと、左手に見えてきます。

 

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私は、吉田松陰さんに何故か、惹かれていました。

私のご先祖様は徳川よりであり、会津よりであり、はたまた、武蔵国の地元でもありまして、吉田松陰さんとは接点が見えません。

しかし、惹かれるものがあるのです。

 

人気ブログのようですが、こちらに詳細が書かれております。

 

「衝撃!幕末の偉人・吉田松陰は相当クレイジーな人だった」

http://bakumatsu.org/blog/2012/05/syoin.html

 

久しぶりに「三軒茶屋」付近を歩いていて、忘れていた感情がよぎりました。

この付近は「平和」です。

「松陰神社」へ向かうまでの商店街を歩きましても、がさついた感情をよぎるものがありません。

つまりは、人の心がキレイなのです。

 

そうした場所に鎮座するのが、「松陰神社」でした。

 

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吉田松陰さんは30歳で亡くなられましたが、とても銅像は30歳に見えません。

もっと、「知識」や「徳」を重ねた聖人に見えてしまいます。

 

ご参拝されていた方々を見ましても、いわゆる「パワースポット」系や、神道バリバリ系の方は見かけませんでした。

それよりも、まともにご参拝作法を知らない方々ばかり目に付きました。

これは悪いと言っているのではなく、それほど神にあらざる近い存在に感じるという事を申したいのです。

私が普通に参拝して、少し浮いてしまいましたから。(この日だけかもしれないが。)

 

つまりですが、堅苦しくないのです。

 

神社にあり、これほど清々しい場所は貴重であります。

しっかりと清掃され、ご参拝者の方々も心がキレイですし、威圧感もありません。

 

 

 

さて、こちらの神社内に、吉田松陰さんのお墓がございます。

静かに手を合わせて頂きました。

 

こちらの神社内を出てから感じた事を話します。

 

まず、私の意識の中で「神道には関わるな」と触れられた気が致しました。

私は、このブログ内で「神様カテゴリー」を展開していますが、それが「域」を超えてはならないと言う事でしょうか。

今、私が理解している事は、自らの心を奪われるほどの「神道」のしきたりに意識を傾けるのではなく、純粋に、自分の心の声としての発言以外は、身を滅ぼしかねないと判断しています。

もしかしたら、それもダメかもしれませんが。

 

そして、これも大切な事を触れられました。

「取り越し苦労」は無駄である事です。

 

私は、客観的に計画を立てて、成功と失敗を苦慮しながら仕事などを行います。

それは、私が様々な書物を読み、マニュアルにそって解決方法を探るように勤めてきたからです。

さらに言えば、とてつもない様々な人生の失敗を経験しておりますので、行動に関して、まずは思考をめぐらせる癖がついております。

 

しかし、こちらの神社内を出てから、意識の中に触れられた気持ちは、これに反する事でした。

「問題が明確化するのは、問題が発生した時である。」

 

当たり前の事ですが、おそらくは、ほとんどの方は、これを意識しておりません。

 

かつて、「明智 光秀」が処刑される直前に柿を出されました。しかし、こう言い放ちました。

 

「柿を食べると腹を冷やすから食べない」

 

私は、今になってこの言葉の意味が解りました。

 

「明智 光秀」は処刑されましたが、処刑される直前までは、本当に処刑されるのか、解らないのです。

もしかしたら、処刑の直前に助けれられるか、島流しか、とにかく「生きる」場面が出てくるのであれば、「柿」を食って腹を壊しては損です。

 

現代の精神疾患病の最たる問題は、この「想定」された世界を自分の中に展開して、失敗するならば、自己責任において責任を負い続ける、人格的な構造です。

 

しかし、いくら考え込んでも、心を苦しみによって追い込んでも、現実は、発生した時に現実になるわけであります。

故に、まずは「概要」を把握した時点に努めなさいと感化された気分になりました。

 

発生経緯を直視するのではなく、問題そのものを直視する事でしょう。

 

私の思考スタイルは変化してきました。

ストーリーを想定するのではなくて、発生している問題に対して「概要」を把握した時点で、その都度、行動に移すようにしました。

すると、心が背負う負担が減りました。

つまり、「取り越し苦労」まで背負っていた訳です。

 

人に対する「恨み、つらみねたみそねみ、いやみ、ひがみ、嫉妬、欲望、執着」も、極端に言えば、「取り越し苦労」の思心から連なっているものであります。 

 

 

吉田松陰さんが、21歳の時に「脱藩」して東北へ遊学をしました。普通は死罪です。

ペリーの船に乗って密航しようとした行動を観察しましても、未来の死罪に対する想定よりも、現実に見えている問題に対してだけ、行動しています。

もし、失敗したら、その都度、その問題に対して行動を巡らせれば良いのです。

それが万が一、「死罪」につながる事であっても、死ぬまでは、生きているのであるから、その状態に対して、出来る行動を取れば良いのであります。

結局、死ぬ直前まで、愚直に、目に写る問題に対して行動した方です。

 

おそらく、「取り越し苦労」など無縁の方でしたでしょう。

「取り越し苦労」という時間が、生きている上では無駄なのでしょう。

 

私は、スマホで場所を確認しながら、惹かれるように行き着いたのが「松陰神社」でした。

あらゆる方々が、何かしら惹かれると言いましょうか、行く必要があるなと意識的に感じる場所はあると思います。

今回の、こちらの「松陰神社」がそうでした。

そして、書く内容か解りませんが、私の意識の中に触れ込んだ事柄も、書かせて頂きました。

別に、スピリット的な事柄とは思っていません。

吉田松陰さん的に言いますれば、これも「運」と「命」の使い方であります。

 

まったくの邪気も無く、まさに地元の方々の自然でキレイな心が流れている神社でした。

そして、その中に吉田松陰さんが眠られている事を想像しますと、何とも自然な感覚を受けます。

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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