アラン芸術論 「音楽」①

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「アラン思想カテゴリー」にて投稿したいと思います。

アラン芸術論についての投稿は、ほぼ原文の雰囲気と哲学的な言い回しを残して投稿しています。

故に、まず読みにくいとは思いますが、ご興味がありましたら、ぜひお付き合い下さいませ。

 

さて、今回の芸術内容は「音楽」についてです。 

 

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photo credit: DSC_6915_pp via photopin (license)

   

まず「声」というものが舞踏で示された身振りとは違うことに注意を払う必要があります。

 

「身振り」という物は、事物を抑えたり変化させたりする動きにそのものによって、事物を描きだしていました。

 

身振りは私たちの「体」に類似し、その中に私たちのあからさまな類似を持ち込んでいました。

しかし「声」という物は、自然の物音をまねることができるくらいで、事物に似ていないのです。ただ見えない物、「内的な感情」をあらわす物です。

 


ところでアランのいう「感情」とは何なのか。例えば、臆病という「情念」が克服された「勇気」です。つまり、「意志の力」によってしかもてない物です。

 

ではこの感情はどこに生まれるのか。それは「感動」の中です。感動が私たちを変化させ、その変化が同類に知覚される。

 

だがなによりその変化は自分自身に知覚される。

 

「驚き」、「不安」、「期待」、「心配」など、自分の動きを律することがげきなくなったとたん、自分自身の動きを恐れるため知覚される物です。

 

「感動」は「声」を変化させ、たいていの場合は筋肉の動揺によって声を鋭く高めるものです。

 

この事物をあらわさない声という機能ですが、それにもかかわらず、全てを述べ立てるような力を持っています。

 

しゃべっている人間がなにを考えているか少しも伝えてくれなくとも、その人間が脅迫しているのか、疑いをかけているのか、許しているのか、と言ったことはなぜかよくわかるのです。

 


つまり、声は驚愕(アラ-ム)のしるしであり、それ自体が警報(アラ-ム)であると言える訳です。

 

人間はその声を自分の声と混ぜ合わせることでそこに起こるアラ-ムを打ち消そうとする。要するに、「声」と「声」を混ぜ合わせて、違いをなくそうとつとめるのです。


 

声と声との不協和を耳でうかがい、声を他の声との間で成功させようとつとめる、自他別のない社会を作り出す。

 

全ての声は絶対的に一緒になっているから、ここには場所という物がなく、あるのは時間だけになります。

 

声は全ての言語を一手に引き受けることになり、他人に知覚されると共に、しゃべっている本人にも知覚される物であり、つまり、「しゃべっている人」は自分との間で社会を作るのに至っているである訳です。

 


うーむ。すでによく解らない世界が展開されていますが、次回に続きます。

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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