複雑にするほど「真実」に見える世界が多いが、これは違う


こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

久しぶりの投稿で「神様系」の投稿をします。


昨日、上野にて「
春日大社 千年の至宝」へ出かけました。

基本的に「熱心さ」から出かけた事ではありませんでしたが、勉強になりました。

大変に込み合っていて、沢山の方の関心がある事も認識した日でした。

「建御雷神」が「鹿」に乗って「霊山」と言って良いと思うが、奈良の山に下りてくる。

そこから「経津主神」もやってくる。

以前に投稿しております「本地垂迹説」より、日本の神様は「地蔵菩薩」や「観音様」に変化して、民衆の前に姿を現わす。

この聖域に対して1300年以上に渡り、信仰が絶えず行われてきた。


ちなみに「明治」に入ると「廃仏毀釈運動」が起こり、日本の神社から「仏教」が取り除かれる事態が発生します。

この時、関係ないのに興福寺の多くの僧侶は、春日大社の神職になったそうです。

暴動が激しかったのでしょう。仕事も無くなりますし。


これは明治政府が「復職」の法令を出しており、問題はない事ですが、こうして神社から仏教色は消えてゆきました。


 

 

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このように「民衆」に対して「神」の在り方が「千差万別」に変化する事は、長年続いてきました。

これは「お釈迦様」の頃からです。


「お釈迦様」は「真理」を複雑にはしたくはない人でありました。

しかし、大衆が教義を理解しようとする時、「祈り」や「仏像」のような物があると、解りやすいのです。

そして、本来は単純で明快な教義が「複雑化」してゆきます。


この「複雑化」を「お釈迦様」は嫌っていました。

しかし、「複雑化」しないと、民衆が「宗教」を理解しやすくならないのです。


この「理解しやすい」は「洗脳」にも利用されます。


「教義」における「神」が崇められて、その対象を真実と大衆が認識すれば、それは現実になります。


ただ、本来は「避けるべき在り方」です。


この「様式」や「多様の神」や「教え」という「複雑化」が現在でも強固に定着しています。



さて、「お釈迦様」も「イエス」も「あの世」があるなんて言っていません。

ところが「あなたは観音の生まれ変わり」と言われると、嬉しくなるものです。


あの世から使命を受けて、この地上にやってきたとしたら、それは使命感がもえるはずです。

本当にそうなのかもしれません。



ただ、これを知っておいて欲しいのですが、人間は「重要性」を誇ります。


「重要」と感じる事に対しては積極的に行動する性質があります。

顔に「ニキビ」が出来れば「DHC化粧品」が必要だ」と感じたり、「自分は神の生まれ変わりだ」と感じれば、その重要感を誇り始めます。

これは、人間の行動原理の1つです。

 

①安定性を求める

②不確実性を求める

③重要性を求める

④愛を求める

⑤成長を求める

 

いくつか上げましたが、たぶん「宗教」の中には全て入っているのではないでしょうか。

ちなみに「②」の不確実性とは、①の安全性に対する別のアプローチです。

例えば「苦行」を行って真理を見つける事です。それをする必要がない事が「般若心経」に書かれているのにです。

 

さて、本日にこんな投稿をしたのは、とある宗教に入信して出家したニュースを目にしたからです。


人間は、自己をその「者」に預ければ、「エネルギーバンパイア」が発生します。

(ブログ内を検索されると、投稿内容が解かります。)

 

この世界において、自己を預ける事は、自己を放棄する事です。

その時、この世界の正しい判断を「内心」から伺う事が出来なくなります。

非常に危険な行為です。

 

私がクドイほど投稿しております「神様の前であっても、自分を預けない」という事です。



「複雑化」した教義は、何とも言えない「真実感」があります。

しかし「真実」は単純なものです。


この「真実」を見る目を備えている事が、まずは大切な事です。

それは「自己」以外にありません。


複雑にするほど「真実」に見える世界が多いが、これは違います。

 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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