最近でも「図書館」について思う事は悲壮でした。



こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

2月に入り、初めての投稿になります。


さて、私は久しぶりに「図書館」を活用させて頂いております。

理由は「読みたい本が売っていない」という理由です。

 

そこで「図書館」を利用しようと思いました。

「図書館」が便利なのは「相互貸借(そうごたいしゃく)」を行って頂ける事です。

例えば、「県内」に住んでいて「読みたい本」がなくても、「都内」から貸して頂けるというサービスです。

 

日本のどこかに「読みたい本」があれば有り難い事です。

 

それには「カリール」というサイトで調べます。

 

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https://calil.jp/

 

 

そんな感じで、約20年ぶりに図書館へ出かけました。

ところが、そこで見た光景は、私が20年前に見ていた光景と同じでした。

 

きっと「受験勉強」でしょうか、「ペンの音」が「カキカキ」と紙に書かれる状態が、無言の内に続いていました。

 

私も経験があるのですが、それは毎日を「カキカキ」と紙に向かって1日を過ごします。

ただし、そこで得るものは何もありませんでした。

 

 

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異常な枚数の「用紙」が、ただ「ゴミ」として捨てられるだけの結果しか生みませんでした。

私は、とにかく「誰かに習った努力」をすれば、それが「身に付く」と思い込んでいましたが、私には全くの無意味でした。

 

もし、受験勉強に追われているとして、図書館にこもって「参考書」を暗記しながら「用紙」に書き写す作業を永遠と続ける「動悸」は、自分の生きる場所がそこにしか無いからです。

 

しかも、多くの人は「自分が目指す世界の為」というよりも、その根底には「他者への想い」から、それを続けている傾向があるでしょう。

 

つまり「地域」や「家族」などの「目線」です。

 

その目線は、彼にとっての「自分が生きる場所」になっています。

 

だから、あまりにも「悲壮」なのです。


この「悲壮」の傍らには、私を見つめる人がいました。

その人は「一般的な社会」とは、少し離れた所にいそうな雰囲気でしたが、私を異質に見えたのでしょうか。

 


私は、この図書館で「アラン全集」を読み込んで、「哲学」に目覚めました。


それは、かつてない「思考の行方(ゆくえ)」を理解した時間でした。

人間が、ただ「模倣の中」に生きるのではなく、「いかに自己を持って」生きる事が大切な事かを教えて頂いた場所でした。

 

ただ、そうした方は見受けません。

 

さて、「図書館」の「相互貸借」によって、私は県民ですが、都内の図書館から本を借りました。

いや、実は「都内の図書館」を進められて、そこから「相互貸借」によって本を借りました。

 

しかし、図書館が「たまり場」のように見えてしまいます。

これでは、健全さを感じません。

 

カウンターの方に向かって「今日の新聞ある」なんて、軽々しく言いつけていました。

私は思うのです。

 

ただ、悲壮であると。

 

私は、いつも上を見ていたい。

だから「太陽」を見上げますし、胸を張っています。

ただ、「光」だけでは「害」を感じてしまいますので、「木陰」で休んだり、自然の中にあろうとしています。

その結果、人間は出来てゆくと思います。

 

私が感じた「悲壮」には、まったく世界を感じなかった。

 

図書館の「本」以外に、そこに「有る人達」から「インテリジェンス」を感じていたい今日この頃でした。

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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