「認識論的切断」の確認が必要であると思います。

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

今回は「哲学カテゴリー」にて投稿したいと思います。

 

この概念はバシュラールからアルチュセールが展開して述べた論です。

 

私達が体験する様々な経験は、それを行っている時には正しいと感じます。

 

しかし、その「パラダイム」と言える、作業的な「認識空間」を一歩超えて、自分が進化する段階があります。

それは仕事であれば「作業効率」が良くなった事を意味しますし、恋愛であるなら「恋愛上手」になった事を意味します。

 

 

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この時、あらためて過去の経験を振り返りますと、過去のダメな部分が見えるはずです。

過去のダメな部分は、成功している自分から見れば否定的な産物です。

この否定的な産物は、成功しているから見えるようになったのです。

 

 

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ここで感じて頂きたい事は、この「否定的」な産物から、私達は発展してはいないと言う事です。

つまり、私達が成長してゆく過程は、けして「タケノコ」のような連続的な成長ではないのです。

かつての自分と、今の自分とでは、まったく違う存在なのです。

成長とは、過去と現在の存在に対して「連続的」な所はなく、むしろ「非連続的」なのです。

 

この「非連続的」であるから、「否定的」な部分を見つけて、これを批判できる新しい存在である「自分」があるのです。

 

どうしても、人間は「過去」からの経験を受け継ぎ、まるで「積み木」か「タケノコ」のように成長してゆく事を思い浮かべますが、それは完全な「思い込み」です。

 

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私達の生活している空間である「科学」が、まったく「非連続的」であり、つまり「パラダイムシフト」する際には、必ず「切断作用」が生まれています。

 

つまり、「認識論的切断」が生まれています。

 

この「認識論的切断」によって、過去の「パラダイム」と現在の「パラダイム」との間に「差異」が生まれ、それが交互に効果を及ぼす結果になっているとも言えます。

 

 

例えば、会社で嫌な上司がいたとします。

 

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この上司は、今までの経験上から行う仕事内容は、いずれも正しいと思い込んでいます。

その方の部下は、これではダメだと思っていても、取りあえずは従います。

 

ここに上司と部下との間に「階層化」ができあがり、それぞれに影響力を持って接する事になります。

 

ただし、間違ってはいけない事は、上司が会社から退社したら、部下の思い描く作業スタイルに変更しても良いのです。

 

理由は、この世界の「パラダイム」が「認識論的切断」という「非連続性」を持っているからです。

 

 

「親」の言う事は正しいと思ったり、「彼女」の言う事は間違いないや、世の中の常識的な流れからすれば、自己犠牲は正しいよなと思う事があるかもしれません。

 

ただしかし、理解しなければならない事は、私達の世界の出来事が「非連続性」であると言う事なのです。

 

「非連続性」であるから、自分が成長した時に、過去の誤りを「反省」したり「否定的」になれるのです。

 

「連続」した視野をもつ人間であるならば、この「反省」や「否定的」な態度にはなれないのです。

 

この世界のあらゆる主義主張が淘汰され、変化する理由はここにあり、「パラダイム」の構造に「認識論的切断」が存在しているから、差異も生まれ、「反省」を理解して「否定的」な事を理解して、新しい進歩的な態度で進歩する事ができるのです。

 

「ニュースで諸先生方が言っているから、新自由主義的な派遣制度は正しい」や、「義務教育は国民の義務であり、正しい事だ」や、その他、この社会と言う世界で展開される様々な認識とは、けっして正しい事ではありません。

 

おおよそ、今の自分に当てはめて、その「パラダイム」の中に入り込み、その「パラダイム」内での視野が限定され、自分を窮屈にして、本来は「否定」できる箇所にも目が届かなくなります。

 

ただし、本来の世界とは「認識論的切断」が明確に存在している世界です。

だから、過去の自分と現在の自分を比較して反省して、否定的な部分を批判する事が出来るのです。

 

過去の世代が誤った世界感を持っているのであれば、それを否定してこそ、世界が出来上がるのです。

それは「反省」を世界に見出すことです。

 

けして、歴史は連続的に進化を遂げているとは言えません。

あくまで、「非連続的」であるから、これを見てくれている「あなた」があるのです。

 

常に私達の生きる歴史の中には、誰の世界にも「認識論的切断」という作用が働いていて、だから成長できて生きてゆけるのです。

 

けっして、この世界が「連続的」な歴史の流れを持っているのではありません。

 

もしも、自分が他者からの支配や、もしくは世の中の支配の為に自由を制限されていると感じる人がいるのであれば、その連続性を手放します。

 

つまり、それは、その認識を誰かに植え付けられたのです。

それこそ、「社会が続く事の前提」のような、普通の人間が持っている感覚の中に入り込んだのです。

 

そうであってはいけません。

あくまで、私達の世界とは「連続的」ではないのです。

 

この「連続的」な認識の中にあり続ける限り、不要な、本来は否定的な認識を真実と理解し続けて生きてゆく必要があるのです。

それは本来の人間の生き方ではありません。

勝手気ままな従属精神なのです。

本人も気づかない、従属精神なのです。

 

この世界は「非連続的」である「認識論的切断」という物がある事を、あなたの知識の道具箱の中に入れて置いて下さい。

 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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