こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。
本日は「思想カテゴリー」にて投稿します。
前回、「光の大切さ」を投稿して数日が経過しました。本当に「光」を大切にしています。
その投稿の際、「禅」について投稿できたらと思っていました。
「禅」といいますと「座る」をイメージしがちですが、基本は「空」を理解する事です。
中国でも日本でも、どうしても「仏教」と言えば「経典」がメインになります。
そして、そこに存在する神々も大切になります。
ただ、この「経典」の大切さも「神々」の大切さも「心」に写る世界で表されています。
「心」に描き出された時、それが現実になって現れています。
これこそ、真実です。
多くの人が、何気なく話している言葉。
真実は、その「言葉」に支配されています。
「言葉」は「心」を通じて、「そこにある事実」を具体化させます。
そこには「言葉」によって、それを扱う自分自身が「変化」させられてしまう恐怖があります。
また、その「言葉」の落ち着く先として「実体」を見ようとするのも人間です。
だから「経典」や「神様」など、自分が納得できる「答え」としての「実体」を求めます。
「ダイヤモンドは最高の輝き」と言われると、ダイヤ以上の物を見いだせなくなります。
それは「言葉」として「ダイヤモンドは最高」という現実しか「心」に無くなったからです。
ちなみに、「結婚指輪」の代名詞は「ダイヤモンド」ですが、大昔は「ルビー」か「サファイヤ」でした。
誰かに、まんまと「ダイヤモンドは最高」を刷り込まれてしまったのです。
これが「実体化」の恐怖です。
かつて、この「実体化」を超えた真実を伝えようとした人物に「達磨」がおられました。
photo credit: dalbera Le patriarche Bodhidharma (V&A Museum) via photopin (license)
6世紀頃、中国は「梁」の皇帝である「武帝」に合う事になりました。
この「武帝」は大変な高徳者でありました。
「仏教」に手厚く、経文から寺院の設立と、その復興に努めました。
(実際は、どの程度かは知りません。)
しかし、「達磨」は「武帝」の行いに対して、まったく意味のない事をしたと言います。
その理由は「夢ごと」に尽力しているに過ぎないからです。
達磨は、この世界の実体が「価値」と言われるような事が存在しない世界である事を説きます。
ところが、「経典」に励めば「救われる」や、「神々」に祈れば「助けられる」などの「価値」ある世界を、どうしても見てしまいます。
日本の仏教でも見られた光景です。
ただ、真実はそこにはありません。
真実は「求める価値を排除した世界」という中にあるのでしょう。
さて、達磨の弟子で「慧可(えか)」という人物がいました。
この方は達磨の教えを頂こうと必死でした。
しかし達磨は弟子として導こうとはしませんでした。
「慧可(えか)」はある時、自分の左腕を切り落とします。
そして切り落とした「左手」を「達磨」に見せます。
この時、「達磨」は「慧可(えか)」を弟子として認めます。
「慧可(えか)」が行った行為は、自分と言う「形」を排除した事を見せたのです。
この世界にある物。それは「形ある物」です。
そして「形ある物」は、様々な現象を伴って私達の前に現れ続けます。
ただし、それは「達磨」からすれば「真実」ではないのです。
「真実」はただひとつ。
真実は「求める価値を排除した世界」
もし、そこに「光」があるのなら、「光」以上に何もないという事です。
「俗世の価値」は一切なく、晴れ渡る青空が広がる。
もし、そこに「鳥の飛ぶ姿」が見えるのであれば、それは自分の「心」が写している世界。
「鳥の鳴き声」が聞こえるのであれば、それも自分の「心」が写し出している世界。
世界はただ、このように広がっているだけなのです。
だから「悩む事」もなく「徳を積む」事もなく、「経典が正しい」という事もなく、「欲深さは愚かである」という事もなく、それらは映画館でスクリーンに映し出されている光景と一切変わらないのです。
私達には、この感覚が備わっています。
こうした実態を理解できる感覚が備わっています。
まずは、散らばる「気」をまとめる為に、座ります。
座る事で落ち着きます。
「あぐら」をかいて、手を組む姿勢は最も集中しやすいポーズです。
その時、「答え」を探すのではなく、「答え」を知ろうとしないのです。
その「求め」が勝手に作り上げようとしている、心の形です。
だから、その「低俗な支配」に飲まれてはいけません。
他人の言う事に、耳を傾けて支配されてもいけません。
落ち込んでいる時に、勝手に「自分はダメだ」という言葉を選んでもいけません。
他人と比較する行動も「心が作り出している形」です。
従う必要はありません。
心は、この世界に「一切」の現実を作り上げます。
しかし、その根本は「達磨」の心境です。
真実は「求める価値を排除した世界」
ここに限りなく広がっています。
これこそ、本来の仏教の在り方です。
釈迦の経典は、あくまで釈迦の経典。
神様はあくまで神様。
真実を感じる「目」は、自分の中にあります。
今回は長い文章でしたが、達磨を通じて「禅」について投稿して見ました。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合い頂き有難うございました。
出来れば、また今週中に投稿したいと思います。
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