「エッチ」は嘗ては「聖なる行動」でありました。

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

本日は「プチ神事カテゴリー」にて投稿します。

 

なんと「神事」の投稿にて「エッチネタ」です。

例えば、「神社」にいらっしゃる「巫女さん」は、かつては「売春のような行為」を兼ねていたという事。

 

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この「かつて」は、かなり昔の事です。

なんで「巫女さん」が売春なんてするんだと思われるかもしれません。

 

こうしたネタを他のブログでも見かけましたが、一般的ではありません。

(知る必要がないですからね)

 


古代、西欧で神聖売春とも呼ばれていた、それである。性的快楽と宗教的法悦とは質的に等しかったのである。悦惚感が自己と他者との境界を消滅させ、宇宙と一体となるまたとないチャンスだった。古代の性には、こういった他界との交感として「遊び」が存在していたのである。

(快楽進化論 P76 抜粋)


 

世界中で「神聖売春」とも言われる形で、「エッチ」が行われていました。

何で「エッチ」をするかと言えば「自己と他者との境界を消滅させ」とありますように、「聖なる世界」に見入る事が出来たからです。

 

インドで見られる「カーマ・スートラ」が解かりやすいですが、ただ「エッチ」が目的ではありません。

 

つまり「光輝く事」が出来るのです。

 

 

しかし、時は流れました。

「エッチ」は完全に「ポルノ」へと変貌して行きます。

 

完全に「世俗化」してゆくのです。

 

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何でこのような事態になって行ったのでしょうか。


世俗の売春はこうした神聖売春の流れをくむものである。他界との接点で味わうことのできる聖なる悦惚、忘我の境地がやがてひとり歩きをはじめ、遊びとしての快楽とか、面白さとしての聖なるものと切り離されていく。そして遊女の特質であった遊芸という文化を喪失した、売淫にのみうつつをぬかす娼婦に変貌していくのである。いま、神々と共に遊んだ女たちはいない。性は俗と化した。

 

若い比較文化学者佐伯順子は、その著『遊女の文化史』(中公新書)の中で次のように明快に記述している。(中略)

その背後にある生命への畏怖にあり、やがてそれが科学によってよみとかれ、畏怖さるものでなくなり、人聞の動物的部分として、『自然』として価値的に低められる時、性はもはや聖ではなくなる。性が聖から俗へ。そしてそれを司る女たちも天から地へ」

(快楽進化論 P76 P77 抜粋)


 

本来、最も大切であった「聖なる世界とのつながり」を排除されました。

端的に「動物」が「交尾」を欲しがる「知識的位置」に「性」を置きます。

科学的に「性」が解釈された時、宗教から「性」が排除され「俗世界」へと落ちてゆきました。

 

このように解釈されています。

 

残念な事ですが、現代にあっては古代と宗教観は様変わりしました。

 

「仏教」も「お釈迦様」は「来世」なんて解らない「現世主義」だったに、今では様変わり。

 

「キリスト教」も「キリスト」が死んだ32年後ぐらいに「パウロ」が始めたのに、「キリスト復活」と言って始めました。

 

神社で言えば、「お宮」なんて無かったのに「仏教」の影響で「立派な建物」の中に収まるようになりました。

参拝客は「立派な建物」を見にゆくようになりました。

 

時代と共に、何が何だか解らない状態で進行しているのが宗教だと見てしまいます。

 

ただ、「心」は残して欲しいですね。

 

世の中の論理が「聖域」に介入してはいけないんだよなと思いながら、投稿を終えます。

 

 

今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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